アイル

ロシアの英雄と東洋人の醜聞-15

 それからの勇利はまるで何かに追い立てられているかのように、ロシアで調整を行った。
 その様子を見てヤコフが心配して大丈夫かと声をかけてくるほどだったが、ヴィクトルは思案気な表情で見ているだけだった。
 ただその時は四回転アクセルの成功率がなかなか上がらないのもあり、気ばかりが急いていて常よりもピリピリとしていたのだ。だからなんだかんだと言いつつ、勇利よりははるかにすんなりとそれを跳んでしまうヴィクトルに、変に構われなかったのは良かった。
 そうでなければ、一杯一杯に張りつめた気持ちが爆発してしまっていたような気がする。


■ ■ ■


 その年の世界選手権は、日本の埼玉で行われた。
 大会ごとに色々な国に移動しているとはいえ、やはり生まれ育った母国での開催となると、雰囲気などもおよそ分かるので悪くは無い。
 ただその分声援も大きいので、期待されている空気をひしひしと感じるのが、勇利には少しばかり苦手だった。

 世界選手権ショートプログラムの前日に行われた抽選の結果、勇利は第六グループの二番手に、ヴィクトルは同グループの五番手となった。勇利的には一番滑走とヴィクトルの直後だけは避けたかったので、最高の引きだ。
 そして迎えたショートプログラム初日。
 何だかんだと心配していた滑走順が、思ったよりもはるかに良かったおかげで良い案配に力が抜けたのか。程良い緊張の中で滑ることが出来、自分でも納得のいく今期一番の出来であった。
 おかげでパーソナルベストスコアを更新したのに喜んでいたのも束の間。
 その後に滑ったヴィクトルはというと、今期から取り入れた四回転ルッツに三回転トウループのコンビネーションジャンプを完璧に決めるのだ。もちろん他の要素も完璧である。
 そんなこんなで勇利自身でも会心の出来であったにも関わらず、ヴィクトルが一位となり、勇利は二位に甘んじるのであった。
 ちなみにそれ以降はJJ、ユリオ、そしてオタベックが続き、いずれもほぼノーミスでの演技であった。
 そのために上位のポイント差はほとんど無い団子状態となっており、トップ四人にいたっては皆百点越えという恐ろしい状況である。
 したがってパッと見には、明日のフリープログラム次第で誰が一位になるか分からないと思うかもしれない。
 しかし勇利にとってはヴィクトルとの自力の差がこれでもかと出た点差のように感じた。
 正直この時点でどうすれば彼に勝てるのか、イメージが全く湧かなかった。

「ヴィクトル、部屋にいるかなぁ」
 そう呟きながらホテルの廊下を歩いていたのは、ショートプログラムを終えた日の夜のことである。
 とはいえ別にこれといって、彼に用があるわけでは無い。ただ何となく落ち着かなくて、少しだけ話したいと思ったというか。
 まあ今までの経験から察するに、緊張とか不安とか、そんなものを感じているのだろう。
 ちなみに以前は資金的な問題でヴィクトルと同部屋で宿泊していたが、今は一応お互い選手同士でもあるということで別部屋だ。
 それでもヴィクトルは二人部屋の方が楽しいからそうしようとか、どこまで本気なのかよくわからないことを未だに言っているのだが。まあそれはともかくである。
 エレベーターに乗って一つ上の階に上がると、廊下の一番端へ歩いて行く。そして目的の部屋の前でノックをしようとしたのだが。
 そこで扉が数センチほど内側に開いており、その隙間から奥のベッドに腰掛けているヴィクトルの姿が目に入ったのに目を瞬かせた。
「あれ?」
 ホテルのドアはそれなりにしっかりとした重たい扉で、手を離すと勝手に閉まるはずだったけどなと思う。
 それが不思議で視線を数度うろつかせると、ドアの隙間にU字ロックの金具が挟まっていたのに思わずジト目になった。
「……はあ」
 偶然か故意かはよく分からないが、超有名人のくせに相変わらずどこか無頓着である。それに勝手に誰かが入ってきたらどうするつもりなんだろうとぼやきつつ、扉に手をかけ、開きっぱなしになっているよと声をかけようとしたのだが。
 そこで彼がいきなりズボンを脱ぎだしたので、慌てたなんてものではない。
 いやまあ男同士だし、実家では共に温泉まで入ったこともあるのでどうということは無いのだが。ただ何となく気まずいのと恥ずかしいのに思わずドアノブから手を外し、とりあえず今日のところは退散しようとする。
 しかしそこで彼の膝にガチガチのテーピングが施されているのに気付くと、踏み出しかけていた足の動きをピタリと止めた。
「ああ……あんなに膝の具合が悪かったなんて」
 彼が以前言っていた通り、トップスケーターは程度の差こそあれ足に何らかの不調を抱えているものだ。だからほとんどの選手は、荷物の中にテーピングテープを持っていると言っても過言ではない。
 現に勇利も持っているし、たまに使うこともある。
 でもあそこまでガッチリと固定するのは、普通じゃない。
 そしてあんな状態になっているのに何故今まで気付かなかったんだろうと考え――そこで大会の時に彼の着替えの姿を一度も見たことが無いことに気付くと、瞳を大きく揺らした。
「もしかして、見せないようにしてた?」
 勇利は心配性なのもあって、常に早め早めの行動だ。反してヴィクトルはというと、コーチになる前は試合ギリギリまで寝ていたと言っていただけあって、わりとのんびりである。
 だから本当のところは分からない。
 しかしそうやって勇利が戸惑っている間にも、彼は丁寧な手つきでテーピングのテープを外していく。それから素の状態が露わになったところで、状態を確認するように優しい手つきでそこを撫でた。
「今日も一日持って良かった。あともう少しだけ……せめて今シーズン中は、なんとか持ちますように」
 そう口にすると腰を深く曲げ、膝に軽く口づけを落とす。
 その光景はひどく神聖で、それと同時に残酷なものに思えた。
(だってこれじゃあまるで……)
 今回が最後みたいだ。
 いや、確かに残りの競技人生は長くないと言ってはいた。言ってはいたが、ヴィクトルのことだから、漠然とあと数年は余裕で大丈夫だろうと思っていたのだ。
 そう思っていたのに。
 こうして突然目の前に突きつけられた現実に、とてもではないが理解が追いつかず、ひどく混乱してしまう。
 そしてその現実から逃げるように一歩二歩と後ずさり、その場から走り去った。



 そんなこんなで翌々日はフリープログラムの日程だったが、勇利のコンディションがかつてないほどに最悪だったのは言うまでもないだろう。
 夜は考え事をしていたせいで二晩ほど寝たのか寝ていないのかよく分からない状況だったし、その影響もあってか。朝になっても食欲もまったく湧かない有様であった。
 かといってこれから試合をする以上は、昨日のようにほとんど何も食べないでいるわけにもいかないだろう。
 というわけでホテル本館二階のブッフェ形式のレストランに一人でコソコソと向かい、毎朝ロシアで食べているのと同じような物をなんとか胃の中に詰め込む。
 しかしそこでタイミング悪くヴィクトルがレストランにやって来て、背後からいきなり勇利の肩を叩くのだ。おかげでひどく驚いてしまい、その衝撃でおかしなところを刺激されたのか。
 吐き気がこみ上げてきたのに朝の挨拶もそぞろに大急ぎで自室に戻り、結局自室のトイレで戻してしまった。
「はー……こんなの初めてだ」
 大体極度のストレスを感じると、それを食欲で発散する方向へ向かうのが常のはずなのだが。
 思いがけず、ヴィクトルが今シーズン限りで引退してしまう可能性を目の前に突きつけられて。でも彼が引退してしまう前に、何としてでも勝ちたい。となると真正面からぶつかりあう試合は、今回の世界選手権しか無いのだ。
 という事実を一気に突きつけられたせいで、自分の頭の理解出来る許容量をオーバーしてしまい、今までになく絶不調な状態になってしまったのかもしれない。
 ただ自分の身体の状態がどうなっていようとも、泣いても笑っても数時間後にはリンクで滑らなければならないのだ。
「なんか、怖いな」
 そこで無意識にポロリと口から零れた言葉に、すぐにハッとするとこれは不味いと頭を振った。
 今まではどんなにコンディションが悪くても、試合前まではなんとか表面上は平静を装っていられたのに。この状況は、どう見ても悪い方向へ進んでいる予感しかしない。
「いや。でも胃の中のもの出したら、ちょっとは楽になったかな」
 大丈夫だと自分自身に言い聞かせるようにあえて口にしながら、ホテルの自室にあるトイレの壁に寄りかかる格好で両膝を抱え込む。そして目の前の事実から逃げるかのように、背中を小さく丸めた。
 しかし時間というものは不思議なもので、こういう時に限って驚くほど早く経過してしまうのだ。
 というわけであっという間に会場への移動時間まであと一時間となってしまったのに、渋々と準備を始めるのであった。
 それから待ち合わせ時間の少し前にロビーへと向かい、ヴィクトルやユリオなどと合流する。
 ただしよくよく考えてみると、朝にヴィクトルとレストランで鉢合わせた時に突然部屋に戻ってしまったのだ。だから勘の鋭い彼に怪しまれているのではと、最初は少々身構えていた。
 しかしそんな不安に反して、普段通りに滑れば大丈夫だとごくごく普通に励まされてしまい、少々肩透かしであった。
 ということは、恐らく毎度のごとく緊張からおかしな行動をとっていると思われたのだろう。
 それにホッと胸をなで下ろしつつ、少し離れた場所にある会場へと車で向かった。

 会場への移動自体は、当初心配していた高速道路の渋滞に巻き込まれることもなかったので、一時間かからない程度の時間で到着した。
 ただ衣装に着替えるにはまだ少し早い時間なので、ロッカールームに荷物を置いてからウォームアップをしてくると言って皆とは分かれる。
 それからしばらくの間は先の宣言通り。用意された大部屋で、いつものようにいつものようにという言葉を呪文のように脳内で繰り返しながら身体をゆっくりと解して。頃合いになったところで競技衣装に着替えて上にジャージを身につける。
 ただ時間が経過するにつれて再び胸元がムカつき始めたのに、人の多い正面の出入り口付近からなるべく離れたトイレに向かう。
 そして目論見通り中に誰もいないのを確認すると、個室に入って便座に深く腰掛けてがっくりと項垂れた。
「あー……もう。車の揺れでやられたのかな」
 ヴィクトルと直接競い合える機会がもしかして最後かもしれないということでなければ、辛うじて残っているこの張りつめた糸すらも今は切れてしまっていただろう。
 ただその気持ちはある種の枷のようにもなっており、こうしてひどく勇利のことを苦しめてもいた。

「――勇利?」
 そうヴィクトルに名前を呼ばれたのは、かれこれ三十分ほどトイレでぼんやりとしていた時のことであった。
 しかし勇利が今いる場所は個室の中で、さらに日本の場合は海外と異なってドアもきっちりと床まであるので、中が見えないはずなのだ。
 にも関わらず何故ここにいると分かったのか。
 さっぱり訳が分からないのにひどく混乱してしまい、思わず小さくヒッと声を漏らすとその声が聞こえたのか。足音がドアの前まで近付いてきて目の前でピタリと止まり、数度ノックをされる。
 そしてそこまでされてしまっては、さすがに無視をするわけにもいかず。仕方なく鍵を開けてドアを少しだけ開くと、予想通り。そこにヴィクトルの姿があったのに、内心焦りながらその名をおずおずと呼んだ。
「えと、ヴィクトル?」
「どこにもいないと思ったら、こんな場所にいたのか。見つかって良かった。声が聞こえなかったら、見過ごすところだったよ」
「あー……うん、ちょっと。それよりどうしたの? まさか時間が前倒しになってもう順番とかじゃないよね」
 まだこれっぽっちも心の準備が出来ていないので、それはとても困ると思いながらのろのろと立ち上がる。
 それからとりあえず個室から外に出ようとしたのだが。目の前に立っているヴィクトルは、それに気付いているだろうに何故か退いてくれないのだ。
 それどころか肩に手を置かれて中に押し戻され、さらに彼まで中に押し入ってくると、後ろ手でドアを閉じられたのに目を瞬かせた。
「えっと……?」
 いきなりのことだったので、さっぱり訳が分からない。
 したがって疑問符を何個も頭の上に浮かべながら、目の前のヴィクトルの顔を見上げると、その表情は思いがけず憂いを帯びたものなのだ。
 それを目にした途端に心臓をギュッと鷲掴みにされたような気がしたのは、彼が内に秘めているものを無意識に感じ取ったせいだろうか。
 そしてそれをきっかけに、一瞬忘れかけていた引退という二文字を強烈に意識させられて。思わず唇をかすかに震わせてしまったのを隠すように下を向くと、苦笑を漏らされた。
「いきなりこんな場所でごめん。外は寒いし、かといって建物の中は中で、あらゆる場所にメディアがいるから」
「う、ん」
 それで、こんな場所で隠れてコソコソとするような話しって一体何だと思いながらゴクリと喉を鳴らす。
 すると彼はまるで世間話でもするかのようなノリで、勇利は滑っていて楽しくないのかなとたずねてきたのに口からヒュッと息を漏らした。
「な、んで、そんな」
 こんな反応をしてしまったら、彼の問いかけが正しいと言っているようなものなのに。
 今一番聞かれたくない質問を、よりにもよってヴィクトルにされたせいでひどく動揺してしまい、まるで取り繕うことが出来ない。
 おかげでヴィクトルに確信を持たせてしまったのだろう。彼はそっかと一言呟くように口にしながら、珍しく自分の方から視線を外すのだ。
 その時、ひどく嫌な予感がしたのにその場から逃げ出したい衝動に駆られるが、目の前にヴィクトルがいるせいでそれは叶わない。それに焦って、なりふり構わずきょろきょろと逃げ道を探してしまう。
 そして間違いなくヴィクトルもそれに気付いているだろうに、彼は容赦なく先の言葉を続けた。
「恐らく俺は、今シーズンが最後だと思う」
「あ、ああ……」
 やっぱりそうだったんだという呟きは、ひんやりとした空気の中に溶けていく。それからその言葉の意味を理解するのと同時に、胸の内に寂しさが広がっていくのが分かった。
 しかし滑走直前にそのことを口にするヴィクトルの不躾さが、なんだか無性に悲しくて。そのせいか、やりきれなさと同時に怒りのようなものまでこみ上げてくる。
 そして気付いた時には、すべてを口にしていた。
「薄々気付いてたよ、全部。一昨日の夜にヴィクトルの部屋に行ったらドアが開いてて、テーピングでがっちり固めた右膝が偶然見えたから。だから僕は……っ」
 こんなにも混乱しているのだ。
 ヴィクトルが引退してしまうのが悲しくて。
 でもだからこそ、彼が引退してしまう前にどうしても勝ちたかった。
 それはきっと、競技者としての本能みたいなものだろう。
 でもあと少しでその背中に届きそうなのに、その少しが遥か遠いのだ。
 そんな自分の不甲斐なさが格好悪くて、悔しくてたまらないのに唇を噛む。
 そしてその高い壁に圧倒されるように思わず一歩後ずさると、膝裏付近に恐らくは便座がぶつかったのか。その上に座り込んでしまった。
「あの時廊下の方から物音がすると思ったら、勇利だったんだ」
「そうだよ。U字ロックがドアに挟まってたんだ」
「そう、そうだった。おかげでドアが開きっぱなしになってるのに気付いて助かった。ただ、そのせいで変なところを見せてしまったみたいで悪かったね。でも勇利がそれを気にしたり、悲観することなんて無いよ」
 そこでヴィクトルは困った表情を浮かべながら苦笑を漏らしたものの、勇利の言葉にさして動揺した様子は無い。
 むしろそれまで纏っていた常の柔らかな雰囲気を一変させると、座っている勇利のことを挑戦的に見下ろしてくるのだ。
 それから、俺の体調まで気にする余裕があるんだと口にした姿は、およそ一年と少し前に実家で目にした光景を彷彿とさせる、王者の姿とまったく同じであった。
「俺は今回のフリーで、四回転のアクセルを跳ぶ。とはいえ痛み止めの注射を打っているくらいだし、足には相当のダメージだろうけどね。もしかしたら国別対抗まで持たなくて、今回で駄目になるかもしれない。
 でも俺は、それでも構わないと思っている。今回の大会、上位陣はポイント差がほとんど無い状態だから。優勝するには、それが必要だ。
 それに公式戦で俺しか跳んでいない四回転アクセルを決めて優勝なんて、最高に興奮するだろう?」
 そこで彼は一度言葉を切ると、目の前に座り込んでいる勇利を見つめながら目を細める。そして緩やかな弧を描いている唇の口角をクッと上げた。
「さあ、勇利はどうする? どうもその様子だと、調子が上がっていないみたいだけど。こんな接戦初めてだし、俺としては最高にゾクゾクするような勇利のスケーティングを見せて欲しいんだけどな。それで息つく暇もないような、ギリギリの戦いをしたいんだ」
「そんなの、コーチの言う台詞じゃないよ」
 だってこれはどう考えても宣戦布告で。それを口にするのは、コーチではなくて……ライバルだ。
 最近コーチ姿も板に付いてきたと思っていたところだったのに、こういうところは相変わらずだ。
 最高に自分勝手で、でも最高に嬉しくて。そしてきっと彼のことだから、なんだかんだと全て分かった上でやっているのだろう。
 今までの大会で、こんなに嬉しくて興奮する瞬間があっただろうか。
 ――ようやくここまできた。
 素直にそう思う。
 そこには、失敗ばかりを気にしてビクビクしていた勇利の姿は、いつの間にか無くなっていた。

『勝生勇利さん、日本』
「それじゃあ、行ってきます」
「うん」
 いつもは、なんだかんだと制限時間一杯を使ってから演技に望んでいる。
 しかし今日はもう、言葉は何もいらない。互いに指輪のはめている右手を固く握りあい、それからリンクの中央へと滑り出す。
 そして日本開催の場合は、大きな大きな声援が勇利のことを絡め取るのだが。今日は不思議と意識の中に入って来なかった。
 それから定位置に着くと、目を閉じて一息ついた。
 氷上では、こうして一人きりだ。
 だからフィギュアスケートなんて競技をしているくせに人目を気にしてしまう自分には、観客席からの声援や視線がひどく重荷だった。
 それでもこれまでこの場所に立ち続けることが出来たのは、それまでの練習、プライド、そして経験から得たいくらかの自信などのおかげだったと思う。
 でもヴィクトルと出会い、それだけじゃないと気付いたのだ。
 そのことを改めて思い出しながら目を開けると、勇利のことを真っ直ぐに見つめているヴィクトルの姿が目に入る。
 ――そうだ。僕らは一人じゃない。
 頭の中に浮かんでは消えるのは、両親や姉、西郡一家、ロシアのリンクメイト、そしてヴィクトルの姿だ。
 彼らに、背中を押され、そしてその思いを乗せて、滑るのだ。
 そうすれば、一人きりでは耐えきれなかった重圧に押しつぶされることだって無い。
 だから僕は、挑戦する。
 そして力強いヴァイオリンとピアノの音が会場を包んだ。



「勇利ー、お風呂入れてあげたから入りなよ」
 そうヴィクトルから声をかけられたのをきっかけに、勇利はそれまで深く深く沈んでいた意識をふと浮上させる。
 そして辺りを見渡すと、いつの間にかホテルの自室まで戻ってきており、窓際に置かれている応接セットのソファに腰掛けていたのにパチパチと目を瞬かせた。
 なんだか数か月前のグランプリファイナルの時のことを思い出す。
 ということは恐らく彼は、あの時のようにぼんやりとしている自分を連れて、わざわざここまで送ってくれたのだろう。
 それに気付いたところで、頭の上に軽く手を置かれたのに顔を上げると、脇にヴィクトルが立っていた。
「ほーら、勇利。いつまでボーッとしてるのさ」
 そこで彼は浴室の方を指さすと、再びお風呂が入ったよと口にする。
 ただ勇利はまだいまいち自分の置かれている状況が理解出来ずにいるのもあり、ぼんやりと彼のことを見つめてしまう。するとヴィクトルは苦笑を漏らしながら、頭上に乗せていた手で頭を数度ポンポンと軽く叩いてきた。
「うん? 勝生選手は、そんなにぼんやりしちゃうくらい世界選手権で初優勝したのが嬉しかったのかな」
「――っ、」
 そしてその言葉をきっかけに、それまでの出来事が走馬燈のように脳裏に蘇ったのに勇利は息を詰まらせた。

 大会だが、結果だけ述べると勇利が優勝し、ヴィクトルが二位となった。
 その結果が出た瞬間、嬉しくて嬉しくて。自分にしては珍しく、湧き上がってくる衝動のままに握り拳を作り、ようやく、ようやく、あのヴィクトルに勝てたと喜びを噛みしめた。
 そしてキスアンドクライでヴィクトルと向かい合うと、ひどく興奮した様子の勇利に彼は一言おめでとうと口にし、強く抱きしめてくれた。
 しかしそこで彼の表情の中に、一抹の寂しさのようなものが見え隠れしていたのに気付いて。嫌な予感がしたのに、咄嗟にその手を掴もうとしたのだが。彼はニコリと笑みを浮かべると、勇利の手からすり抜けていってしまう。
 それからヴィクトルは報道陣が今か今かと待ち受けているミックスゾーンへ向かい、晴れやかな表情を浮かべながら今期限りで引退をすると口にした。
 瞬間、周囲に大きなどよめきが発生した。
 そしてカメラのフラッシュが何度もたかれる中、記者の質問が彼に殺到したのは言うまでもないだろう。
 ただ勇利の記憶は、その激しい光に焼かれてしまったのか。そこからはひどく曖昧だ。
 ただヴィクトルが口にした、新しい風が吹いているのを感じるんだという言葉だけは、鮮烈に脳裏に焼き付いていた。

 それがここまでの全てだ。
 放心状態だったせいで何が何だか訳が分からなかったが、そこでようやく状況を把握し、顔を下に俯けた。
「ヴィクトルは……引退するんだ」
「うん、そうだよ」
「……、そっか」
 予め言われていたこととはいえ、いざその時をこうして目の前にすると、当然ショックだ。
 先ほど記者が口にしていた、今期の成績ならまだまだ現役続行出来るのではとか、グランプリファイナルの後に夢ならさめなければいいって言ったのはヴィクトルの方なのにとか、色々な出来事と思いが脳裏を過ぎっていく。
 でもヴィクトルの足のことを思ったら、冗談でもそんなことは口に出来なかった。
 それにその時を決めるのはヴィクトル自身であって、それにどうこう口を出す権利は勇利には無いのである。
 したがって全ての思いを飲み込むようにギュッと唇を結んで。それからただ一言、楽しかったよと口にした。
「ずっとずっと、ヴィクトルとああいう風に滑りたいって思ってたんだ」
「俺もこんなに競ったのは久しぶりだったから、本当に楽しかった。
 それにしても、まさか後半に四回転のアクセルをもってきて、決めてくるとは思わなかったよ。ノーミスであれをやられたら、もうかなわない」
 そう口にしながら、ヴィクトルは軽い調子で笑っている。
 でもきっと、足の調子がそこまで悪くなかったら、彼はきっと跳んだだろう。そしてその悔しさも、同じ選手だからこそ分かる。
 したがって思わず彼の手を掴んだら、柔らかな笑みを向けられた。
「ところで明日のエキシビションさ、久しぶりに離れずにそばにいてのペアを滑るのはどうかなって思ったんだけど。どう?」
「――うん、いいね」
 そして不意打ちでこんなことを言ってくるのだ。
 もちろん思いがけない提案だったのもあり、瞳を大きく揺らしてしまう。
 そこでついに耐えきれずに涙を零すと、勇利は泣き虫だなあと言って笑いながら抱きしめられた。

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