アイル

アルファとアルファに愛は生まれるか 拝啓、十年後の君へ-1

『勇利、明日の件なんだけど。モスクワでの仕事が年末一杯まで入っちゃった関係で、一緒に過ごせなくなっちゃったんだ。せっかく久しぶりにゆっくりしようって話してたのにごめんね。
 でも荷物を取りに行くために一回家には戻るから、明日の昼頃に少しだけ会えると思う』
 ヴィクトルからそんな連絡が来たのは、勇利が現役引退後にロシアで彼との同居を始めてから半年ほど経過した、十二月二十四日の夜のことである。そしてその言葉を聞いた勇利は、翌日に控えたヴィクトルの三十三歳の誕生日を共に過ごせないことを内心ひどく残念に思った。
 ただし彼は、勇利が現役を引退してから本格的にコーチ業を始めたため、シーズン真っ只中の十二月はもっとも忙しい時期なのである。
 そんなわけで、現在も彼の教え子たちが参加しているロシアナショナルに、開催場所であるソチまでサブコーチなどの数名のスタッフと共に帯同している。
 ついでに言うと、彼はコーチ業だけではなく振付師、さらに合間を縫ってモデルなどの仕事も精力的にこなしていて。
 小さい子ども向けのスケート教室のコーチと、あとは最近ぼちぼち依頼を受け始めた振り付けの仕事しかしていない勇利とは、忙しさが段違いだというのは、ほぼ休みなく働いている彼の日頃の動きを見ていてもよく分かる。
 したがって勇利は全ての感情を飲み込み、一拍置いてから分かったと素直に答えた。



 そして迎えた翌日の二十五日。その日は土曜日のために、勇利はスケート教室の仕事が休みだった。
 だからこそ、ヴィクトルと久しぶりにゆっくり出来ると楽しみにしていたというのもあるのだが……今さらそれについて考えたところで、どうしようもない。
 なんてことをぐるぐると考えつつ、リビングルームのソファに座ってなかなか進まない時計を何度も確認する。
 そして時計の針がようやく十二時を指してからしばらくすると、チャイムの音が鳴り響いたのに勢いよくその場に立ち上がる。それから小走りで玄関へと向かうと、予想通りだ。ドアの前に想い人の姿があったのに、自然と口元を緩ませた。
「お帰り、ヴィクトル」
「ただいま」
 そこでヴィクトルは勇利の頬に手を伸ばしてきて、帰宅の挨拶代わりの軽い口付けを目の端にしてくるというのがいつものパターンである。
 しかし先にも述べた通り、今日は彼の誕生日なのだ。
 ということを勇利は今一度胸の中で繰り返しながら、拳をギュッと握る。
 それから意を決して一歩足を踏み出し、外気に長時間晒されていたせいで未だ冷たい状態の彼の頬へ、息を詰めながら唇を軽く押し付けた。
 ただし普段はしないことなので、恥ずかしさから頬は真っ赤だ。
 したがってすぐに身体を離すと、上気している顔を隠すために顔を俯けた。
「えっと……その、誕生日おめでとう」
「ふふ。うん、ありがとう。でも久しぶりだし、もう少しだけいいかな」
「へ?」
 何がと口にしながら顔を上げるのとほぼ同時に、両頬に手を添えられる。そして気付いた時には互いの唇同士が重なっており、最初は冷たかったヴィクトルの唇が徐々に熱くなっていく感覚にドキリと胸を高鳴らせた。
 勇利がロシアにやって来て正式な仕事が決まってからは、なかなか時間が合わないのもあり、彼とそういう雰囲気になったことはほとんど無い。というわけで、セックスの方もかれこれ半年ほどご無沙汰なのである。
 そんな事情もあって、たかが触れるキスをするだけでも、先のようにひどく緊張したのだが。それがまさかの、いきなりのこの展開である。
 しかもさらに繋がりを深くするためか。少しだけ唇を離され、上唇と下唇の狭間をゆっくりと舌先に辿られたのに、上体を大きくビクつかせながら息を大きく吸ってしまう。
 しかしその直後のことだ。
 鼻先に異様なまでに甘ったるい香りが広がり、べったりと鼻腔に張り付くような不快な感覚が走ったのに、無意識に両手を伸ばして目の前の厚い胸元を押し退けていた。
「――っと、勇利?」
 それまですっかりとキスに蕩けきっていたくせに、いきなり抵抗を示したので変に思ったのだろう。ヴィクトルは不思議そうな表情を浮かべながら、顔を覗きこんでくる。
 ただそうやって身体を近付けられるほど、先ほどの香りが濃厚に漂ってくるのだ。
 そしてそれと同時に視界が小さくぶれるような覚えのある感覚が走ったのに、そうかと思いながら鼻と口元を手の平で覆った。
「ヴィクトル……今までオメガのヒート状態の人と一緒だった?」
「ああ、ごめん。香りが染みついちゃってたか。
 実は空港で待ってた人の中に、ヒートになってた人がいて、ね」
 でもすぐに空港のスタッフの人に連絡したからと口にしているものの、かすかに困ったような雰囲気を漂わせながら眉を下げている。
 その様子から察するに、実際の現場では少々面倒なことになったのだろうなということが薄々察せられた。
 ということは、彼のファンの人がヒートの状態で待っていたのは恐らくわざとだったのだろう。そして優しい彼のことだから、それに薄々気付きつつも邪険にすることはなく、最後まで何だかんだと面倒を見てやったといったところか。
 ただこの手のことはちょくちょく耳にするので、そう騒ぎ立てるようなことではない。それにヴィクトルが悪いことなんて、何も無いのだ。
 そう分かっているのに。気付いた時には、胸の内で渦巻いているどす黒いものを吐き出すかのように、皮肉のような言葉を口にしてしまっていた。
「実は、その人とそういう関係だったりして」
「えっ?」
 もちろん、本心からそう思っているわけではないし、普段であればこんなことは絶対に口にしない。
 しかしかれこれ半年ぶりにヴィクトルと一緒に過ごせると思ったのに、その約束が流れてしまって。そこに思いがけずアルファ性の者をひどく刺激するオメガ性の発情臭がしたせいでパニック状態になってしまったのと、あとは嫉妬心からうっかりと口が滑ってしまったというか……まあそんな感じである。
 そして当然ヴィクトルもアルファ性なのは言うまでもなく。その香りは一見平静に見えていた彼のことも、少なからず刺激していたのか。
 先の勇利の言葉を聞いて驚いた様子で大きく見開かれた目蓋は、その直後にスッと細められた。
「まさかそんなわけ無いってわかっているくせに、どうしてそういうことを言うの。
 ああ……それとも、やきもちを妬いてくれているの?」
 そこでヴィクトルは一度口を閉じると、表面上は緩やかな笑みを浮かべながら、一歩二歩と身体を近付けてくる。そうすると当然周囲の空気が動き、先ほどの発情臭が再び勇利の鼻先に香るのだ。
 それが嫌で嫌でたまらない。
 だからじりじりと後退りをし、その場を離れて自室に戻ろうとしたのだが。
 クルリと背中を向けたところで逃がすまいというように右手の手首をつかまれ、壁に向かい合う形で押し付けられてしまう。
 そして背中に熱を感じるのと同時に、それとも欲求不満なのかなと耳元で囁かれたのにブルリと上体を震わせた。
「そんなわけ……っ!」
 無いと言いたいのに。
 ドキリとしたのもあり、つい大きな声を上げようとして咄嗟に息をたくさん吸いこんでしまう。そしてそのせいで先ほどの甘ったるい香りが鼻腔一杯に広がったのにくらくらとして、結局何も言えないのがみっともないったらない。
 しかもその隙にと言わんばかりに、互いの身体をピッタリと密着させられ、その状態でゆっくりと腰を回すように動かしてくるのだ。
 おかげで尻の狭間に当たっている陰茎の存在をひどく意識してしまい、久しぶりの熱の感覚に身体があっという間に高ぶっていってしまう。
 でもこんな状況が本意な訳が無いだろう。
 したがって苦し紛れながらも、いやいやと首を振って抵抗していたのだが。おとなしくしろと言わんばかりに、うなじにガブリと噛みつかれたのに小さく呻き声を漏らした。
「う、ぐっ」
「ん……」
 雲行きが怪しくなってからのヴィクトルは、常よりも言葉少なだ。ただその様子は、見方によってはすっかりとうなじに夢中なようにも見えた。
 ただし先にも述べた通り、勇利はアルファ性である。だからそこにそんなことをされたところで、特に何があるというわけでは無い。
 そして今なお全身を包んでいる甘ったるい香りと、思いがけないうなじへの執着は、ひどくオメガ性を意識させるものだったからだろうか。
 普段はなるべく意識しないようにしようと、心の奥底に押し込んでいるオメガ性へ抱いている嫉妬や羨望などの感情を思い出してしまって。その途端、不安な気持ちが急激に大きく膨らみ、目元がジワリと熱くなる。
 そのくせ相変わらず身体の方は高ぶっていて、心と身体がまるでちぐはぐな状態なのに、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「なんで、こんな」
 何だかんだと言いつつも、ほんの少しだけでもこうしてヴィクトルと会うことが出来て嬉しかったはずなのに。
 でもこうなってしまったのは、そもそもは自分の要らぬ一言が原因なのだと思うと、ますます情けなくて、悲しい。
 しかしそんな勇利の心境とは裏腹に、ヴィクトルの手の動きは止まることなく。腰から腹、さらに下生えをスルリと撫でられ、ついに竿を掴まれてしまう。
 でもこんな混乱しきった状態でなし崩しに関係を持つのは、勇利の本意ではない。
 だってこんなの、感情が置いてきぼりになって、全てが有耶無耶になるだけだ。
 ――瞬間、寒気のような感覚が背中を這い登っていったのに、思わず両肘を勢いよく後ろに引き、何とかヴィクトルの腕の中から抜け出した。
 以降は、それまでの戸惑った態度とは一転。
 玄関の脇にある、ドアが開けっ放しになっていたクロークルームの中から自身のリュックとコートをひっつかむと、いきなりのことに呆気に取られた様子のヴィクトルの横をすり抜け、ものすごい勢いで外へと飛び出す。そしてただひたすらに、外の道を走った。
 その途中、むしゃくしゃする勢いのまま右手の薬指にはめていた金の指輪を外し、リュックの中に入れっぱなしにしていた財布のコイン入れの中に勢いよく放り込んだ。

 それからまだまだ慣れない雪道を転びそうになりながらも、なるべく駆け足であてどなく道を走る。
 と言っても、勇利は仕事場として通っているクラブ周辺くらいしか、地理を把握していない。
 つまり家を飛び出したところで行く当てなんてまるで無いため、気付いた時には目の前に見慣れたチムピオーンスポーツクラブの施設があったのに大きく息を吐いた。
「勢いで出てきたものの、こっちにはこういう時に頼れる知り合いは、ユリオくらいしかいないし……結局、こうなるよなぁ」
 ただし彼に頼ったところで、即刻ヴィクトルに見つかるのは間違いないので却下したのだ。
「とりあえず、ヴィクトルが仕事に出掛けるまでの時間を、そこら辺で適当に潰すか……」
 ただとてもではないが、近場のショッピングモールなどの人混みに向かう気分にはなれない。
 となると、公園しかないかと独り言を呟きながら、クラブの最寄り駅に向かう。そこから地下鉄を乗り継ぎ、海岸沿いにある公園に向かった。

「やっぱり、この時期はほとんど人がいないや」
 公園に到着すると、目の前の湾から吹き付ける風はあっという間に体温を奪っていく。それもあってか、自分以外の人たちは、足早に園内を通り過ぎていくだけだ。
 でも今はそのくらいがありがたいのにホッと胸を撫で下ろしつつ、砂浜に続く階段に座って目の前に広がる水平線を眺めた。
「ここの光景、前にヴィクトルに連れて来てもらった時は、なんとなく長谷津の海に似てるなと思ったんだけど」
 だからヴィクトルに連れて行ってもらったいくつかの公園の中で、一番遠くにあるこの場所までわざわざ足を運んだのだ。
 しかしロシアの極寒な気候は、容赦なく景色を変容させてしまったのか。あの時見た、少しだけ色褪せた空の青と海の青と、境界線にちらほらとあったはずの島影の緑色は見当たらない。
 目の前にあるのは、白と黒のグラデーションで塗られたモノクロの世界だけだった。
「長谷津の方は、こっちみたいに一日中零下なんてことは無いからかなあ……」
 そしてその言葉にまるで同意するかのように、海の方から一際強い風が吹きつけたのに両腕で上体を抱きしめながらブルリと身体を震わせる。
 それと同時に二十九歳にもなって、こんな家出みたいな真似をして何をやっているんだろうと今さらな考えが浮かんで来たのに、立てていた膝の間に額を埋め込んだ。
「こんなはずじゃ、無かったんだけど」
 予定では、例年通りこっそり用意しておいた誕生日プレゼントを渡して、彼が再び出掛けるまでのほんの少しの時間を互いに楽しむつもりだったのだ。
 そうだ、そのはずだったのだが。
 実際のところは、ものの見事に予定とは真逆の最悪な状況を作り出してしまったのに、ただただ自己嫌悪の嵐である。
「もう何やってんだよって感じだ、本当に」
 しかもヴィクトルと恋人関係になってからはなるべく気にしないようにしていた、オメガ性へ抱いている感情までも改めて露にされてしまったのが、非常に不本意というか。面倒なことに気付いてしまったなと思いつつ、両手で頭を抱えた。
「まずいよなあ」
 だって今回のように発情臭がついてしまうことは、今までだって何度かあった。だからこれからも絶対に起こるのは間違いないのである。
 何故なら彼は、彼が願わずともオメガ性の人が自然と寄って来る。まさにアルファの中のアルファと言うべき、強烈なオーラを持っている存在なのだ。
「だから……仕方ないんだって、分かってはいるんだけど」
 しかしそれをはっきりと理解してもなお、つがいという特別な存在になることが出来るオメガ性の人が羨ましいという気持ちを、完全に払拭することは出来なかった。
 それならと、代わりにその気持ちを自分の中で納得して受け入れる形に出来ないかと考えてもみたが、いくらうんうんと唸ってみても、その道筋さえもまるで思い浮かばない。
 それどころか、ついうっかりとオメガ性だったら良かったのにと口にしそうになったところで、いけないいけないと慌てて頭を振った。
「今は、いくら考えてもダメそうだな。でもまあ、まだ直後だし」
 もう少し時間を置いてから、改めて考え直そうと一つ大きく頷く。
 それから気分を切り替えるように、スマートフォンを取り出して通知のメッセージを確認したのだが。意外にもヴィクトルからの連絡が一切入っていなかったのに、しばし固まった。
「あれ?」
 今までは心配なことがあると、何かにつけてすぐに連絡が入っていた。それだけに、今回全く何も無いのは正直ショックだ。
 ただ先ほどの出来事を思い返すと、どう見ても勇利の方からケンカを振ったのは明らかで。だから仕方ないじゃないかと、まるで自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。
 しかし何だかんだとあの温厚なヴィクトルをここまで本格的に怒らせてしまったのは、かれこれ五年ほど前のグランプリファイナルで、一方的に引退宣言をした時以来だろう。それもあって猛烈な不安感がこみ上げてくるのを感じると、もう駄目だ。
 それからはヴィクトルのことばかりが気になってしまい、どうにも落ち着かなくなってしまう。かといって自分から連絡を入れる勇気も無いのに、どうしようどうしようと、往生際悪くその場で考えこむ。
 だがこんな場所にいつまでもとどまっていたところで、事態が好転することは決して無いのだ。
 そこでしばらくして諦めて立ち上がると、そろそろ家に戻ろうかなと呟いた。
 もはやそこには、家を飛び出した時のピリピリとした勇利の姿はどこにも無く。それどころか、不安から瞳を揺らしていた。


■ ■ ■


「ただいまー……って、やっぱりもう出かけてるかな」
 でももしかして、もしかしたりしないかなと思いつつクロークルームの中を確認してみる。
 しかし予想通り、そこに先ほど彼が羽織っていたコートやマフラーは見当たらなかった。
 ついでに言うと全体的に先ほどよりも衣服が少ないところから察するに、これからの仕事のために何着か持ち出したのだろう。
 それでも諦めきれずにリビングやダイニングを確認してみたものの、やはりヴィクトルの姿はさっぱり見当たらなかったのにガックリと肩を落とした。
「でもまあ、そうだよな」
 なんだかんだとあれから三時間ほど経過しているので、荷物を取りに家に立ち寄ると言っていた彼がいるはずが無い。
 そしてそうなると、この広い家の中に勇利は一人きりということになる。
 加えて今日明日は土曜日曜なので、思い当たる仕事といえば振り付け依頼のメール返信くらいしか思いつかない。
 ただ座っての作業なので、また欝々と考え込むのは目に見えている。
 それならいっそ気晴らしに夕食の買い物にでも行った方がまだマシかと考えると、再び外へと出かけることにした。

 ただし夕食の買い物だけだと、三十分とかからずに帰宅することになるのだ。
 ――ということに目的の店が見えてきたところではたと気付くと、さらにもう少しだけ足を伸ばすことにする。
 そして案の定というべきか。気付いた時にはほぼ無意識に、現在の職場であるチムピオーンスポーツクラブのトレーニングリンクに再び足を向けているのであった。



「はー……みんなえらいな。いつも通りちゃんと練習してる」
 今日は十二月二十五日で、世間一般で言うところのクリスマスだ。
 勇利の記憶だとこの日はなんだかんだと皆そわそわとして落ち着かず、少し早めに練習を切り上げる人も多い。
 しかし目の前のリンクで滑っている面々は、見たところいつも通り落ち着いて練習している様子だ。
 そこでロシアのクリスマスは一月七日なので、十二月二十五日はさして何もしないよとヴィクトルが言っていたのを思い出してそっかと呟いた。
 それから見知った顔はいないかと思いつつ、何気なくリンク上の選手たちに意識を向けた時のことだ。
 目の前を鮮烈な光が横切ったのに、視線が釘付けとなる。そしてその光は綺麗な軌跡を描きながら、事もなげに四回転のフリップを決めたのにあんぐりと口を開けた。
「――えっ!? ちょっ、ちょっと待って、」
 助走から踏切のタイミング、さらにジャンプ時の体勢や着氷時の姿勢にいたるまで、ヴィクトルのそれとまるで同じだ。今まで何百何千回と見てきたのだから、間違えるはずがない。
 でも彼は、すでにモスクワに向かっているはずである。
 あるいは、仕事内容が変更になったのかと考えながら視線を光の方へ恐る恐る向けると、やっぱりだ。何度見ても惚れ惚れとする、ヴィクトルの美しい滑る姿がそこにあったのに、思わずほうと息を吐いた。
 そして先ほど家であったことも一瞬忘れてひどく熱心に滑る様子を見つめていたので、それに気付いたのか。彼がふと顔を上げて勇利の方を向いたために、正面から互いの視線が絡み合う。
 しかしその直後、彼は口元に笑みを浮かべながら勇利に向かって手を振ってみせるのだ。
 その瞬間胸の内に強烈な違和感が走ったのに、思わずフェンスを両手で握りしめながら、視線を横にそらした。
「あ、れ?」
 直前にひどいケンカをしたため、ヴィクトルからの連絡はこれまで一度も入っていない。そこから察するに、彼は相当怒っているはずである。
 だから見て見ぬふりをされるか、直接文句を言われるかと思ったのに。まるで何事も無かったかのような反応をされ、さっぱり訳が分からない。
 それを妙に思ったのもあり、再び彼の様子を伺った時のことだ。その容姿が、昼に見た時よりも明らかに若くなっていることに気付く。
 しかもそこでタイミング良く懐かしい曲がリンク内に鳴り響いたのに、混乱を覚えて思わず口元を手の平で覆った。
「……どういうことだ? これって、かなり前にヴィクトルが滑ってた曲だよな」
 忘れるはずもない。
 彼が世界選手権を始めて制覇した時に使用していたものだ。何度も何度も繰り返し見たので、よく覚えている。
 でもオフシーズン中の息抜きに滑るならともかく、ヨーロッパ選手権前のこのタイミングに彼がリンクでそんなものを滑るのは、明らかにおかしいだろう。
 だって彼はすでに現役の選手では無く、指導する立場の人間なのだ。
 そうだ、そのはずなのに。
 さらに駄目押しと言うように、そこでヴィクトルを指導するヤコフコーチの大きな声がリンク内に響いたのに、思わずその場を数歩後退った。
「えっ……? ちょっと、待った。なんでヤコフコーチがヴィクトルの指導をしているのさ。ヴィクトルがまた選手になるってこと? それとも同じ名前のそっくりさん?」
 しかしいずれの考えも現実離れしすぎていて、まるでしっくりこない。いっそのこと、これは十年前の夢を見ているのだと言われる方が説得力がある。
 ただそう考えた途端に急激に寒気のようなものが背中を這い登ってくる感覚に、ブルリと全身を震わせる。それからその場を逃げ出すように、小走りにクラブの外へ出た。

「とりあえず、ヴィクトルに電話をかけて確認してみよう」
 もしも先ほどの彼が本物のヴィクトルだったとしたら、何を妙なことをしているのだと思われるかもしれない。でもその時はその時だ。
 そこで慌てすぎているせいで少しばかりもたつきながらも、何とかポケットからスマートフォンを取り出す。そして通話履歴から電話をかけてみると、現在使われていないという内容のアナウンスが流れたのにかすかに眉をひそめた。
「おかしいな」
 それならとピチットくんや西郡家の面々、さらに自宅などに手あたり次第にかけてみるものの、受話口から流れるのはすべて同じ。現在使われていないという、無機質な機械音声のみである。
 そしてそれをきっかけに、それまでぼんやりとしていた嫌な予感が急激にはっきりとした形をなして脳裏をチラつきはじめたのに、思わず現実逃避をするように苦笑を漏らした。
「まさか……本当に、ゲームとかアニメとかでよく見るトリップものの展開だったりしないよな」
 あえてそう口にしたのは、その考えがくだらないものだという確証を得たかったからだ。
 しかし口にしたことでますますそうとしか思えなくなってきたのに慌てて頭を振ると、いい年して何を馬鹿なことを考えているんだと思いながら、小さく咳払いをした。
「とっ、とりあえず、そろそろ夕方だし。一度家に帰ろう」
 思えばこんな寒い場所でいくら考えたところで、ろくな考えは浮かばないだろう。それよりも暖かな場所でゆっくりと考えをまとめた方が、よほど有益なことが思いつきそうだ。
 それにうんうんと頷きながら、家に向かって歩き出す。
「――と。その前に夕食も買わないとか」
 そこで本来の目的をようやく思い出すと、道の途中にある行きつけの店で、ピローグというロシア風パイを数切れ購入するのであった。

 勇利は家に到着すると、鞄やコートをリビングのソファの上にぽいぽいと放ってからバスルームに向かい、バスタブに湯をためる。その間に着ていた服を脱いだり、ソープなどを用意していると、すぐにちょうどいい湯量になるのだ。
 それから普段よりもゆっくりと風呂に入りながら、それまでの一連の流れを振り返ってみたものの……いくら考えてみても、これという明確な答えを得ることは出来なかった。
 そんなこんなでいい加減湯あたりしそうになったところで渋々と湯から上がり、バスローブを着ようとしたのだが。洗面台の脇に設置されているラックの所定の場所に、ローブが一枚しか置かれていなかったのにぐうと喉を鳴らした。
「なんだかなあ……これが過去の世界なんだって、外堀から埋められていってる感じがする」
 どうせこれもヴィクトルサイズなんだろうなと思いつつ身に着けてみると、やっぱりだ。鏡で確認してみると、全体的に一回り大きい。
 そこでルームウェアを持ってくるのを忘れたことを思い出し、自室へ戻るべくバスローブ姿で廊下を歩いていた時のことだ。
 ちょうど玄関の前を横切ったところで、ドアの鍵がガチャリと開く独特の金属音が響いたのである。それにまさかと思いつつ顔を上げると、そのまさかのまさかだ。
 ヴィクトルの姿があったのに、ポカンと口を開けた。
 しかもそれだけではなく、彼は傍らに透き通るような青い瞳とブロンドの長い髪を持った、絵に描いたようなロシア美女を伴っているのだ。
 そして三者三様に目を合わせ、最初に行動を起こしたのは女性だった。
「ヴィクトル、今度からはバッティングしないように気を付けることね」
 夢を見させてくれてありがとうとさらに言葉を重ねると、もうここに用は無いと言わんばかりに身を翻し、さっさとその場を立ち去っていく。その様子はいっそすがすがしいほどで、未練などはまるで感じられない。
 その切り替えの早さもあいまり、二人してしばし呆気に取られながら、徐々に小さくなっていく女性の後ろ姿を見つめていたのだが。
 しばらくして外からビュウと冷たい風が吹き込んできたのに、バスローブ一枚姿の勇利はブルリと全身を震わせる。
 もちろん目の前に立っていたヴィクトルはすぐにそれに気付いた様子で、少し戸惑った様子を見せながらも玄関のドアを閉めてくれた。
「……さて。色々と聞きたいことはあるけど。君って、確か今日の夕方にクラブのリンクサイドで練習風景を見ていたよね。関係者、なのかな?」
 そこでヴィクトルは怪しんでいるのを隠すことなく、勇利の全身を上から下へゆっくりと見下ろす。その時浮かべていた表情はひどく真面目なもので、冗談を言っているようにはまるで見えなかった。
 おかげで先ほど一瞬考えた、もしかして過去の世界にやって来てしまったのではという馬鹿げた予想が、ますます当たっているような気がしてくるから困ったものだ。
 ただ勇利自身まだ半信半疑なのもあり、さすがにいきなりその考えを口にするだけの勇気は無い。
 したがって散々視線を泳がせた末に口にした答えは、自分の名前を口にすることであった。
「あ、はは。やだなあ、いきなり何言ってるのさ。僕だよ僕。勝生勇利」
 乾いた笑いを漏らしながら、冗談きついなあとさらに続ける。
 しかし勇利という名前を聞いても、ヴィクトルは眉一つ動かさないのだ。
 それどころかやれやれといった様子で肩を思いきりすくめながら、コートのポケットからスマートフォンらしき白い物を取り出したから慌てたなんてものではない。
 そこで慌てて両手を身体の前で左右に大きく振りながら、怪しい人間じゃない証拠ならあるから、警察に通報するのだけはちょっと待ってくれと必死に頼み込んだ。
「怪しくない証拠ね……友だちの友だちなんていうのは無しだよ」
「電話まで出されて、そんな馬鹿なこと言わないよ。
 そうじゃなくてリビングルームに僕のスマホが置いてあって、その中にヴィクトルと撮った写真とか動画とか、たくさんあるから」
「俺と? でも俺、君と撮った覚えなんて全く無いけど」
 合成写真じゃないのとはっきり言われてしまうものの、とりあえずそう思ってくれても構わないから、見て欲しいんだと何度も頭を下げる。
 その勢いに押されたのか、あるいは単純にどんなものを見せられるのか興味が湧いたのか。定かではないが、彼は少し考える素振りを見せた後、チャンスは一度きりだからねと釘を刺してきたのに、大げさなほどに何度も頷いてみせた。

 それからヴィクトルの前を歩いてリビングへ向かい、ソファの上に置いてあったスマートフォンをまずは取り上げる。
 そしてやや緊張しながらアルバムを起動すると、数あるデータの中で一番のお気に入りの『離れずにそばにいて』のエキシビション時の動画を再生してから彼に端末を渡した。
「その動画、僕の一番のお気に入りなんだ。エキシビションの時の映像だから最初は真っ暗なんだけど、しばらくしたらライトが当たるから」
「へえ……ああ、映ったよ。髪型が違うせいかな。今と随分イメージが違うけど、画面に映っているのは君?」
「あっ、うん。僕だよ」
 ちらりと視線を向けられたので、慌てて眼鏡を外して前髪を両手で持ち上げてみせる。すると彼は何度か動画の勇利と見比べて、一応は納得してくれたのか。なるほどねと呟く声が聞こえたのに、胸を撫で下ろした。
 しかし画面上にヴィクトル自身の姿が映し出されると、それまでのどこか客観的に動画を見ていた姿とは一転。彼は明らかに動揺した様子で一度顔を上げ、目の前の勇利のことを見つめる。
 ただ動画の方が、気になってたまらないのだろう。すぐに視線を落とすと、今度は食い入るようにスマートフォンの画面を凝視していた。
 そして動画の末尾までいって画面が再び真っ黒になったところで、彼はひどく混乱した様子で目元を手の平で覆った。
「なんだろう。正直、なんてコメントすればいいのやらって感じだよ。こんなにリアルな動画を見せられると思わなかったから、驚いてしまって。混乱しているっていうのが、率直な感想かな。
 まさかそっくりな人を使って、俺を驚かそうっていうテレビの企画とかじゃないよね」
「はは。こんなに滑れるヴィクトルのそっくりさんがいたら、間違いなく今ごろ大会に出まくって、何度も台乗りしてるんじゃないかな。
 とはいえ僕も、さっきクラブのリンクでヴィクトルが滑っている姿を見た時、僕の知ってるヴィクトルのそっくりさんかと思ったけどね」
 しかも僕のことまるで覚えていないみたいだしと、すっかり意気消沈した表情を浮かべながら口にしたので、気の毒に思われたのか。ヴィクトルは困った様子で首を傾げながら、ひとまずお互いの状況を整理しようかと提案してくる。
 その言葉に勇利は顔を上げると、一つ大きく頷いてみせた。
「君の方は知ってるかもだけど、一応自己紹介しておくよ。俺はヴィクトル・ニキフォロフっていう名前。フィギュアスケートの選手をやってる。今はヨーロッパ選手権と世界選手権に向けて練習中だよ。あとはそうだな……あ、そうそう。年齢は二十三歳」
 最後についでといった様子で付け加えられた言葉の、破壊力といったらない。
 ガンと側頭部を殴られたような衝撃が走ったのに、たまらず両手で顔を覆う。それから下を向いたままの格好で、絞り出すようにそうだったんだと口にした。
「あのさ……でも、僕が知ってるヴィクトルは三十三歳なんだ」
「え? それって、つまり――」
「にわかには信じられないけど……僕的には、この世界は十年前っていうことになるんだよね」
「つまり俺から見ると、君は十年後の未来から来たっていうこと?」
「まあ、うん。僕も色々考えてはみたんだけど、ヴィクトルが本当に二十三歳だって言うなら、答えはそれしかないかなって」
 そこでチラリとヴィクトルの様子を伺うと、案の定訳が分からないといった表情を浮かべている。
 しかし即座に何を馬鹿なことを言っているのだと切り捨てることをしないのは、先ほど妙にリアルな動画を見たせいだろう。その証拠に、彼の視線は勇利が先ほど渡したスマートフォンに固定されている。
 それから画面をタップして動画を再び再生すると、今度は最初から最後まで彼の視線が上げられることは無かった。
「はぁ……未だに何もかも信じられないっていうのが本音ではあるんだけど。ただこの動画を見ると、ね。でもここでいくら考えたところで、証拠は出ないだろうし」
 動画が末尾を迎えて画面が再び真っ暗になると、ヴィクトルはどこか名残惜し気な雰囲気を漂わせながら、画面の縁を指先でなぞっている。
 そして少しの沈黙を挟んだのち、君はこれからどうするつもりなのと思いがけない質問を投げかけられたのに、ハッと目を見開いた。
「あー……そうだな」
 勇利的には、ロシアでの心のよりどころとも言うべき場所は、今まさにいるヴィクトルの家だ。だが二十三歳の彼にとって、勇利の存在は赤の他人にすぎないのである。
 そんな存在をいつまでも家に居させる義理は、彼には全く無い。
 ということを理解した途端、ここに来るまでにあった出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
 ヴィクトルと喧嘩をして、彼にとってもはや何でもない存在になってしまって。そしてそれは、先ほどの女性との遭遇によって、証明された。
 それを思うだけで胸がズキズキと痛み、表情が歪んでしまう。
 しかし何も知らない彼にそんな心境を知られるのはどうしても嫌で、誤魔化すように愛想笑いを浮かべてみせた。
「幸い手持ちのお金はいくらかあるから、そこら辺にあるどこか適当なホテルに泊まるよ」
 ただしお金は有限なので、すぐに仕事を見つけなければいけないだろう。なんて具合に妙に冷静なのは、一種の現実逃避みたいなものだと思う。
 そうやって平静を装いながら、これ以上みっともない所を見せたくないのと嫌われたくない一心で、そそくさと座っていたソファから立ち上がる。そして迷惑をかけてごめんと謝罪の言葉を口にしながら、ひとまず着替えるためにバスルームに向かおうとしたのだが。
 一歩足を踏み出したところで手首を掴まれたのに、顔をおずおずと上げた。
「あ、いや。べつに妙な真似をしようとしたわけじゃないよ。そうじゃなくて、いつまでもここにいる訳にもいかないし、とりあえず服を着ようと思ったんだ。バスルームに、さっき脱いだ服が置きっぱなしになっているから」
「心配しなくても、いきなり外に放り出すようなことはしないから。
 それよりも君の自己紹介、まだだよ」
 そこで掴まれた手を後方に強く引かれたせいで、再びソファの上に座ることになってしまう。しかも間髪入れずに横から早く早くとせっついてくるのだ。
 おかげで立ち上がるタイミングを逸してしまい、微妙に気まずい。
 とはいえ何だかんだと言いつつ、興味を持たれることに悪い気分がしないのも確かで。結局促されるがままに、彼の質問に答えるのであった。
「えっと……さっきもちらっと話したけど、名前は勝生勇利だよ。一応勇利って呼ばれてたから、そう呼んでもらえると嬉しいかな」
「へえ、そうなんだ。勇利、ね」
「うん」
 名前を覚えるためか。何度か勇利と呼ばれると、くすぐったくて、それでいて寂しいような。奇妙な気持ちが胸の内に広がる。
 しかしそんなどちらつかずな感情が嫌だったのもあり、何事も無かったかのように言葉を続け、年齢は二十九歳で、一応元々の国籍は日本だとさらに付け加えると予想通りだ。
 ヴィクトルは驚いた様子で勇利の頭のてっぺんから爪先まで、まじまじと見つめる。それから嘘だろと呟いたのに、思わず笑いを漏らしてしまった。
「アジア人のあるあるネタみたいなものだよ」
「それにしても、まさか六歳も上だなんて……てっきり年下だと思っていたのに」
 そこでまいったというように天井を仰ぎ、何もかも信じられないよと口にする。そして勇利の笑い声につられるように、彼ももう笑うしかないといった様子で軽快な笑い声を上げた。
 そうして互いにひとしきり笑い転げると、なんだかすっきりとした気分になるから不思議なものだ。
 そしてそれはヴィクトルも同じだったのか。彼がそれまでまとっていた他人行儀な緊張した空気は、気付くといつの間にか霧散していた。
「あーあ。こんなことって、あるんだなあ。夢を見ているみたいで、不思議な気分だ。
 そのせいかな。なんかもう、ここまできたらこれも縁かなって思えてきたし。この家のハウスキーピングをしてくれるっていう条件付きでも良いなら、ここにいてくれてかまわないよ」
「えっ?」
 もちろん勇利にとっては、願ってもない申し出だ。
 ただそんな簡単に信じられてしまうと、逆に心配になってきてしまって。もしも僕が悪いやつだったらどうするのさと思わずたずねると、苦笑を漏らしながら肩を竦められた。
「自分で自分を悪人ですって自己紹介する悪人もそういないだろうから、今の台詞で逆に安心したよ。
 っていう冗談はさておき。まあ悪いやつだったらその時はその時だ。個人的にはそんなことよりも、君――えっと勇利、だよね。うん。勇利の話を色々と聞いてみたいっていう好奇心の方が強いんだ。だから今の話、どうかな」
 俺は真剣だよとさらに言葉を重ね、思いがけずキラキラとした屈託の無い笑みを向けられると、やっぱり好きだなあと改めて思ってしまう。
 でも今目の前にいるヴィクトルは、勇利の知るヴィクトルとは違うのだ。
 したがって小さく咳払いをしながら、そんなやましい気持ちを胸の奥底に無理矢理押し込む。そして何事もなかった風を装い、よろしくお願いしますとどこか他人行儀を装って頭を下げることで、二人のどこか奇妙な同居契約が成立するのであった。



「そういえばさ、十年後の俺と勇利ってどういう関係だったの?」
 そうたずねられたのは、バスルームに置きっぱなしになっていた衣服を身に着け、ようやく人心地ついてソファに再び腰掛けた時のことであった。
 ただしいくらか打ち解けられたとはいえ、恋人同士の関係でした。なんてことまで洗いざらい打ち明けられるほど、勇利は肝っ玉が据わっている性格では無い。
 そんなわけで少しの間視線を泳がせながら頭をフル回転させ、最終的に出た言葉はビジネスパートナーというあながち間違っていない単語であった。
「ビジネスパートナー? エキシビションでわざわざペアのプログラムを滑ってたし、それにこの家にも出入りしてる様子だったから、もしかして恋人かなと思ったのに」
「言うなあ。僕、こう見えても一応ヴィクトルと同じアルファ性だよ」
「ああ、そうだったんだ。でも俺はそういうの、気にするタイプじゃないし。そっちのヴィクトルもそうじゃなかった?」
「……はは。うん。そうだね、そうだったよ」
 話せば話すほど、目の前の人物もまたヴィクトルなのだという確信が深まる。
 彼はこの時から変わらない。その言葉と行動は真っ直ぐで、曇りが無い。
 だというのに、自分ときたら。些細なことですぐに不安になってしまい、その結果のこれである。
 その事実に改めて自己嫌悪を覚えて項垂れていると、唐突に目の前に見覚えのある細長い鍵を差し出されたのに顔を上げた。
「え、これって」
「この家の鍵だよ。住むことになったら、必要になるだろう?」
 ただし勇利は、すでにそれを渡されている。
 したがって足元に置いていたリュックを漁り、その中から少し古ぼけたアイスキャッスルはせつのマスコットキャラクターのキーホルダーのついた鍵を取り出してみせた。
「ありがとう。でも実は、同じ物を僕も持ってるんだ」
「あれ、本当だ」
 さすがにヴィクトルは驚いた様子で、勇利が持っていた鍵を手に取る。それから自分の持っていた鍵と合わせ、鍵山が一緒だと口にしながらしげしげとそれを眺めていた。
「鍵まで持っているのは、さすがに驚いたよ。っていうことは、この家で二人で一緒に暮らしてたっていうこと?」
「ええと……まあ、はい」
「ふーん、そっか。ビジネスパートナーっていう話だったけど、公私ともにずいぶんと仲が良かったんだ」
 そんなどこか思わせぶりな言葉をきっかけに、素直に渡された鍵を受け取っておけば良かったのだとはっとする。つまり墓穴を掘ったことに気付くものの、すでに手遅れだ。
 ただしこういう時は、言い訳を重ねれば重ねるほど悪い方向へ物事は進むものである。
 というわけでお決まりの愛想笑いを浮かべていると、ヴィクトルからもニコリと笑みを向けられて。それから手に持っていた鍵を、差し出したままになっていた手の平の上に乗せられた。
「――さて。それじゃあそろそろ夕食の準備をはじめようか。と言っても、これから買いに行かないとなんだけど」
「あ。それなら、僕がさっき買ってきたピローグがあるんだけど、それでもいいなら一緒にどうかな」
 ヴィクトルがここであえて話題転換をしてくれたのは、故意か偶然か。まるで分らないが、これ幸いと便乗させてもらう。
 そしていそいそと冷蔵庫の中からパイの入った白い箱を取り出すと、ヴィクトルは嬉しそうな表情を浮かべながら勇利の肩を叩いてきた。
 おかげで二人の間にちょっぴり漂っていた微妙な空気がふっと霧散したのに、勇利はひっそりと安堵するのであった。

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