アイル

アルファとアルファに愛は生まれるか 拝啓、十年後の君へ-2

「やっぱりハウスキーピングしてくれる人がいると、すごく助かる」
 ヴィクトルがそう口にしたのは、勇利が住み込みという形で働き始めてから、一週間と少々経過した一月初旬の週末のこと。二人が日課としている早朝ランニングを終え、ダイニングルームのテーブルに向かい合って座りながら、朝食のパンとスープを食べている時のことであった。

「ヴィクトルにそう言ってもらえると嬉しいけど、なんだか申し訳ない気もするんだよなあ」
「日本人はシャイだって聞いたけど、そんなところまでシャイなんだ」
「いやいや、そういうわけじゃなくて。ハウスキーピングって言ったって、僕が出来ることなんて掃除と洗濯と、あとは簡単な料理くらいだからさ」
 以前は、これに加えて普通に仕事もこなしていたせいだろうか。なんだか調子が狂うんだよねと漏らしていると、ヴィクトルは興味を持った様子で身を乗り出してきた。
「そういえば今まで聞いたこと無かったけど。勇利って元の世界では、普段どんな風に過ごしてたの?
 ていうかエキシビションに出てたってことは、現役のスケーターだったんだよね。そもそも現役引退してるの?」
 なんて具合に続けられた言葉に、思わず胡乱な表情を浮かべてしまう。
 しかしそれを見ても、彼はまるで悪びれた様子は無く。ニコニコと笑みを浮かべながら、だって勇利って二十九歳にまったく見えないからと続けられた言葉に、はあと息を吐いた。
「さすがに、現役は引退してるよ」
 と言いつつも、なんだかんだとつい最近まで現役を続けていたのだが。まあそれはともかくである。
 普段はヴィクトルが練習しているチムピオーンスポーツクラブの小さい子ども向けの教室で、先生をやらせてもらっていること。さらに振り付けの仕事も最近始めたことを教えると、ヴィクトルは興味深そうな表情を浮かべながら頷いていた。
「現役を引退した後の生活なんてまるで想像つかないけど、そんな感じなんだ」
「僕の場合は、ね。まあそんな調子で何だかんだと引退した後もスケート漬けの毎日だったから、今の生活は調子が狂うっていうか……氷が恋しいっていう感じなのかな」
「ああ、なるほどね。そういうことなら、分かる気がする」
「うん」
 今は立場こそ違うものの、互いにフィギュアスケートに人生をささげている身の上だ。だからそこら辺のことは、いちいち細部まで言葉にせずとも通じるものがあるのだろう。
 ともかくそういうことなら、来週末あたりにでも滑りに行こうかなとぼんやりと考える。でも一人だとつまらないので、ヴィクトルも誘おうかなと行儀悪くテーブルの上に肘を付きながら考えていた時のことだ。
 勇利ってどんな選手だったのとさらにたずねられたのに、少しばかりびっくりとしながら勢いよく顔を上げてしまう。そして彼と視線がバッチリと合ったところで首を傾げられたのに、慌てて誤魔化し笑いを浮かべながら頬を掻いた。
「あ、はは……。いや、そういう質問とか、されると思わなかったからちょっと驚いちゃって」
 でも質問されるということは、興味を持ってくれているということだろうから素直に嬉しい。
 それを思うと、途端にむず痒いような感覚が背中を走ったのに、視線を横にそらしながらうなじを手の平でさすった。
「どんなって言われてもなあ……自分で説明するのは難しいけど。ただヴィクトルのスケートにずっと憧れていて、よくお手本にさせてもらってたかな」
「俺?」
「うん、そうだよ。世界ジュニア選手権で眠れる森の美女のリラの精のプログラムを滑ったでしょ? それをテレビで見たのが、僕がヴィクトルのことを知って、憧れたきっかけ。
 でもまあ、そうは言っても成績の方はヴィクトルみたいにはいかなかったけどね。グランプリファイナルに初出場したシーズンなんて最悪で、その後の全日本でもボロ負けして、結局世界選手権にも出られなかった時もあったし」
 そしてそれから。ヴィクトルがわざわざ長谷津までやって来て、勇利のコーチになってくれたのだ。
 さらに今では恋人同士の関係にまでなったのだから、人生何が起きるか分からないものである。
 なんてことをぼんやりと考えていると、ヴィクトルはパソコンを持ってくると言って突然立ち上がり、自室に引っ込んでしまう。しかしすぐに戻ってくると、その手には先の宣言通り。薄手のノートパソコンがあり、それをテーブルの上に置いた。
「いきなりどうしたの? 調べもの?」
「いや。よくよく考えてみたら、この世界にもう一人の勇利がいるはずだろう? だからその情報が見られないかなと思って」
「あ、なるほど」
 うっかりと見落としていたが、そういえばそうだ。そこでポンと両手を打ち合わせ、いそいそと彼の隣に腰掛ける。
 すると彼はすでにブラウザを立ち上げて検索をかけており、日本のスケート連盟のページを表示してくれていた。
「日本語表記だから、俺には何が何だかさっぱり分からないな。悪いけど、選手の紹介ページはどこか教えてもらえるかな」
「えーっと、左から三個目のアイコンをクリックしてもらって……そうそう、ここだここだ」
 さらにそのページの中のフィギュアスケートの項目をクリックしてもらうと、強化選手の一覧がずらりと表示される。
 しかしそのページを上から下まで何度確認してみても、そこに自分に関する記載が無かったのに目をパチパチと瞬かせた。
「あれ? なんでだろう」
「勇利、いない?」
「ここのページにはいないなぁ」
 それならと少々キーボードを拝借させてもらうと、今度はウェブ検索画面に自分の名前を打ち込んで検索をかけてみる。
 しかしやはりフィギュアスケート選手の勝生勇利の情報は一切表示されなかったのに、うーんと小さく唸り声を漏らした。
「おかしいな……この前のシーズンから、シニアの大会に出場してたはずなんだけど。情報が全く出てこないや」
「うーん、そっか。タイムトラベルものの映画とかでたまに見るけど、同一時間軸に同じ人間が二人は存在出来ないルールとかあるのかな」
「あー、なるほど。たしかに、万が一自分自身と鉢合わせちゃっても困るしなぁ。いないならいないで、それは別に構わないんだけど」
 ただしよくよく考えてみると、この世界線の勝生勇利がいないということは、これから数年後にヴィクトルにコーチになってもらうことも、恋人関係になることも不可能なのである。
 さらに勇利が元の世界に戻った時に、その事実が引き継がれる可能性だって無きにしも非ずなのだ。
 ということにはたと気付くと、途端にもやもやとした不安感が胸の内に広がる。
 そしてその感情に引っ張られ、それまで検索画面に思い当たる自分に関する単語を片っ端から打ち込んでいた手の動きを止めてしまったために、妙に思われたのだろう。横から顔を覗きこまれ、大丈夫? と声をかけられた。
「おかしな話題を振ってしまってごめん」
「えっ? いやいや。僕の方こそ、心配かけちゃってごめん。たぶんここでの生活にある程度慣れてきたから、色々と考える余裕が出てきたってだけだよ」
 あははと乾いた笑いを零しながら、大したことじゃないよと口にしながら頬を指先で掻く。
 しかし敏いヴィクトルがこんな下手な言い訳に誤魔化されるはずもなく。むしろさらに心配をかけてしまったのか、眉間にかすかに寄せられていた皺がはっきりとしたものになったのに、ぐうと喉を鳴らした。
 以前だったら、それでも頑なに大丈夫だと言い張っていただろう。でも今目の前にいるヴィクトルは、自分よりも六歳も年下である。
 それにこの後すぐにヨーロッパ選手権があり、さらにその後には世界選手権も控えていると言っていたので、今は重要な時期でもあるのだ。
 だからこんなどうでも良い雑念で、彼の気を紛らわせたくない。
 いや。まあ、彼はこんな些細なことを練習にまで引きずるタイプでは無いとは思うのだが。それでも勇利自身はかなり影響されるタイプだったのもあり、一度気になりはじめるとどうにも落ち着かない。
 したがってそこで腹をくくると、それまで意味もなく頬を掻いていた手の動きを止め、自身の膝の上に置く。そして正直に言うよとぽつりと口にした。
「さっき、僕がボロ負けしたシーズンの話をしたと思うけど。実はそのあと、日本の僕の実家までヴィクトルが来てくれて、僕のコーチになってくれたんだ。ただ僕がいないとなると、そういうのってどうなるんだろうと思って」
 その言葉を聞いたヴィクトルがどんな反応を示すだろうと一度言葉を切る。そしてチラリと彼の様子を伺うと、案の定驚いた表情を浮かべていたのにそうだよなと思った。
 ただしその後に続けられた彼の言葉は、勇利が予想していたものとはまるで異なるものであった。
「俺の自意識過剰でなければ、勇利は自分のことよりも俺のことを気にしているみたいだ」
 その言葉にドキリとしたのは、彼に隠し事をしているからだろうか。
 しかしそれを直接聞けるはずもなく。かと言って先の言葉に何と返答すれば良いのかも分からないのに黙りこくっていると、意外にも羨ましいよという言葉を続けられたのに、思わず小さく息をのんだ。
 だって、それもそうだろう。何故なら目の前のヴィクトルにとって、勇利はただの奇妙な同居人にすぎないのだ。
 それこそ下手したら気持ち悪がられても仕方ないと思っていただけに、その言葉をきっかけに落ち込んでいた気分が一気に上昇するのを感じる。
 そしてその勢いのままどうしてとその言葉の真意を問うと、彼は器用に片眉だけを上げながら肩を竦めてみせた。
「勇利は、十年後の俺のことを好きなんだなと思ってさ。でもここにはその勇利の存在がいないから。だから、勇利に思われている十年後の俺が羨ましいなって」
「う、えっ」
「別に変な意味じゃないよ。そうじゃなくて、アルファのフェロモンにつられているだけなのに、それを本心からの好きだと勘違いしていることってよくあるじゃないか。もちろんそれは本能だから仕方ないし、構わないとは思うんだけど。その感情を直接ぶつけられる時って、大体話がこじれるからどうも苦手で。駄目だとは思いつつも、ついつい身構えちゃうんだよね。
 でも勇利は俺と同じアルファで、先入観無しに気持ちを受け取れるから。そういう関係って、いいなと思って」
「……ああ」
 好きという単語を言われた瞬間、やっぱり何もかも筒抜けだったのかとひどく焦った。
 しかしその後に続けられた言葉は、以前ヴィクトルと付き合うことになった時に言われた言葉のうちの一つとほとんど同じだったのに、胸がきゅっと締め付けられる。
 先ほどからヴィクトルが言葉を発するたび、シーソーのように大きく感情が揺れ動き、翻弄されっぱなしだ。それにたまらず、自身の胸元のシャツを手の平で握りしめた。
「僕も、ヴィクトルが他の人のコーチをすることになったら、その人のことが羨ましいなって思うから、一緒だね」
「はは。それなら羨ましい者同士、傷の舐めあいでもしようか。でもそれだと未来の俺に嫉妬されるかな」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。もしもこの世界に僕がいたら、嫉妬されそうだ」
「だといいんだけど」
 そこで思わず顔を見合わせると、互いに苦笑を漏らす。そしてそれと同時に、いつの間にか欝々とした気分が霧散していることに気付き、不思議な感覚に包まれるのを感じた。
 それを正確に言葉にするのは難しい。ただ誰かと秘密を共有した時に感じる、常よりも密な空気が互いの間を漂っている感じというのが一番近いだろうか。
 しかし彼とは出会ってから一週間しか経っていないことを思い出すと、視線を天井に向けながら顎に手を添えた。
「うーん」
「どうしたの?」
「いや、大したことじゃないんだけど。もともと僕って人付き合いとか苦手で、打ち解けるまでかなり時間がかかる方なんだ。だからこんな風にすぐに普通の感じになれたのは何でだろうって」
「それって、俺が特別みたいで嬉しいな」
 それでその結論はと先を促しながら身を乗り出されたのに、少しばかり視線を彷徨わせる。
 しかし正直に十年後のヴィクトルと顔が似ているからだと思うと答えると、横に座っている男はイスの背もたれに寄りかかりながら天を仰いだ。
「勇利ぃ、そこは空気読んでくれないと。さっきの俺の感動が台無しじゃないか」
「ごめんごめん」
 今度は先ほどまでの苦笑とはまた少し違う、純粋な笑い声を漏らしながら謝罪の言葉を口にする。
 そして借りていたノートパソコンのカバーを閉じながら、良ければ今度一緒に滑りに行こうよと、誘いの言葉を笑顔で口にした。

戻る