アイル

アルファとアルファに愛は生まれるか 拝啓、十年後の君へ-3

 翌週末。勇利とヴィクトルの二人は、車で三十分ほどの距離にある、とある島に向かった。
 その島は、サンクトペテルブルク市内を流れているネヴァ川の河口にある中州で、島一個が丸々公園となっている。そして冬になって島内の池が凍ると、そこがスケートリンクとして開放されていた。
 ちなみに街の中心部から離れている場所にあるのと、その日は曇りで平年よりもやや寒かったせいか。公園内を歩いている人は、休日にも関わらず意外にも少なめであった。
「今日は週末だし、また混んでるんだろうなって思っていたけど。意外に人が少なめだし、ゆっくり滑れそうで良かったね」
「あれ? もしかして勇利、前にここのリンクに来たことあったりする?」
「あ、いや。リンクで滑るのは初めてだよ。前にこの公園に来た時は、別の場所にある宮殿みたいなところで定期的に開かれてるっていう仮面舞踏会? みたいなのに参加したんだ」
「ああ、あれか。そういえばドレスを貸してくれて、記念撮影とか舞踏会みたいなのに参加出来るって聞いたことあるな。でもあれって、仮面というか仮装舞踏会じゃないの? 仮面を着けるなんて話は聞いたこと無いけどな」
「え? そうなの?」
 それにヴィクトル曰く施設側がドレスを貸してくれるという話だが、勇利が参加した時にはそんな話は一切聞かされていない。
 というか仮面舞踏会というのは表上の名目で、舞踏会が始まってからしばらくすると、会場の隅の方でそういう雰囲気になっている人たちがたくさんいた。
 つまり舞踏会という名のアングラ的な社交場というか……まあそんな感じだ。そんな催しで衣装貸し出しなんて、あるはずも無いだろう。
 そこで何となく彼の言う仮装舞踏会と、自分の言う仮面舞踏会に齟齬があるような気がしたのに、思わずヴィクトルの顔を見上げてしまったのがまずかった。
 彼の顔を見たのをきっかけに、その時にあった出来事を脳裏に鮮明に思い出してしまったせいで、顔を真っ赤に染め上げてしまう。
 そしてそれを見たヴィクトルは、何か思い当たることがあったのか。合点がいった様子でああと声を漏らすと、悪戯っ子のように口元にニンマリと弧を描くのである。
 その表情に嫌な予感を覚えて一歩身体を引こうとしたのだが。その前に腰を掴まれてしまい、耳元に唇を寄せられた。
「特に興味も無いからすっかり忘れてたけど、そういえば夜にそう(・・)いう(・・)舞踏会を開くから来ないかって誘われたことがあったんだった。その様子だと、勇利はそっちの方の舞踏会に参加したんだね。
 でも驚いたよ。勇利って、そういうの苦手なタイプだと思ってたから」
 さらに確かあれって会員の紹介が無いと出入り出来ないから、俺の紹介かなと囁かれる。
 その言葉にドキリとして、思わず肩を揺らしながら冷や汗をかいた。
 ともかく、これ以上彼と面と向かって話していては、何もかもが露見してしまいそうで恐ろしいったらない。
 したがってわざとらしく咳払いをしながら、大げさな仕草で背後のヴィクトルの身体を押しのける。そしてさっさと先を歩き、今はリンクになっているという池へ向かった。
 そしてその後ろを、ヴィクトルは軽快な笑い声を上げながら追いかけてくるのであった。

「ねえねえ勇利。俺、勇利が滑ってるところ見るの初めてだし、せっかくだから何かのプログラムを滑って見せてよ」
 ヴィクトルからそう声をかけられたのは、現役時代の癖で氷の状態を確かめるようにリンクを数周ほど滑ってから、立ち止まった惰性でスピンを数回ほど回っていた時のことであった。
「競技用のリンクじゃ無いし、もちろんフルで滑ってとは言わないから。アイスショーとか現役時代のプログラムとかの一部を少しだけ、ね?」
「ええ……?」
 ここは一般の人もいる屋外のスケートリンクだ。だから他と違うことをして悪目立ちをするのは、勇利の本意ではない。
 ただし自分の滑りをダシにヴィクトルに滑ってくれと言えるのかと気付くと、それまでの微妙な反応はどこへやらだ。パッと顔を上げると、代わりにヴィクトルも何か滑ってくれるならと交換条件を嬉々として口にする。
 そしてそれを聞いたヴィクトルは、満面の笑みを浮かべながら勇利が望むならいくらでも滑るよと答えてくれたのに、勇利は破顔した。
「それで、勇利は何を滑ってくれるの?」
「うーん、そうだなあ。それじゃあせっかくだし、ヴィクトルにコーチになってもらってから、初めて曲と振り付けを一緒に考えて作り上げていったやつはどうかな? 危ないし、さすがにここでジャンプは跳ばないけど、ストレートラインステップのところとかなら迷惑じゃないかな……」
「ああ、それはいいね」
 そこで曲名は何とたずねられたので、少しばかり照れながら『Yuri on ICE』だよと答える。すると彼は途端にキラキラと表情を輝かせ、しかしすぐに残念そうな表情を浮かべながら聞いてみたかったなあと呟いた。
「もしかして、曲にも興味あるの? これまで使ったプログラムの曲なら、スマホに一応全部入れてるから聞くことは出来るけど」
「ワオ! それなら、曲を流しながら滑ることが出来るじゃないか」
「は……? ええっ!?」
 まさかそんなことを言われるとは夢にも思っていなかったので、正直騙された気分だ。
 当初はちょっと滑るだけのつもりだったのに。だんだんと大事になっていっている事実に、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出そうとしていた手の動きを止める。
 しかしヴィクトルはそんな勇利の様子を見てもお構い無しだ。
 俺も曲付きで今季のプログラムを滑るからさとニコニコと口にしながら、手首を掴んでくる。そしてあっという間に端末を持った手を外に引っ張り出されてしまい、半ば強制で曲付きで滑ることが決定してしまうのであった。

 ただし話はこれで終わりではない。
 というのも、スマートフォンの中に、これまでのプログラム曲が全て入っていることがバレてしまったために、せっかくだし上の曲から順番に滑って見せて欲しいと言われてしまったのだ。
 これに勇利がまいったのは言うまでもないだろう。
 さすがに今は現役時代ほどのトレーニングはしていないし、さらに十年後の世界に来てからは、さぼって早朝ランニングくらいしか運動をしていないのだ。
 おかげで怠けきった身体は、数曲目に突入する頃には、油の切れた機械のようにギシギシと悲鳴を上げはじめる。
 そんなこんなで。結局勇利と交互で滑ってくれていたヴィクトルよりも先に音を上げると、早々にリンクの端にべったりと座り込んでしまうのであった。
「勇利ってば。俺が滑っている間は休憩出来るのに、もうへばっちゃったの?」
「はー……ごめん。最近、怠けてたせいかな。ヴィクトルに体力勝負で負けるのは初めてだよ」
「ええ? 本当?」
 ヴィクトルは半信半疑な表情をありありと浮かべながら、顔を覗きこんでくる。
 しかし今はそれに言い返す気力も無く。膝の上に額を乗せてはあはあと荒い息を吐いていると、ヴィクトルは腰に巻いていたジャケットをわざわざ外して肩にかけてくれた。
「んあ、ありがとう」
「ここは屋内じゃないからね。動いていない時は、風邪を引かないように上に何か羽織ってた方がいいよ。
 それより勇利と滑るの、すっごく楽しいなあ。小さい頃に、何も考えないで夢中に滑ってた時のことを、久しぶりに思い出した」
「はは。楽しんでもらえたなら良かった。こんなにヘトヘトになったかいがあるよ」
 冗談めかしてそう口にしながら何気なく顔を上げると、意外にもリンク上に人が増えてきていたのにはたと気付く。
 そこで慌てて立ち上がると、ほど近くをのんびりとした様子でステップを軽く踏んで滑っていたヴィクトルの元へ寄っていった。
「滑るのに夢中になってたから分からなかったけど。いつの間にか、人、増えてきてたんだね」
「ああ、そういえばそうだね」
 最初は数組ほどしかいなかったのだが、今は十数組ほどいるだろうか。親子連れや友達同士、それにカップルなどが、リンク中央に設置されている大きなクリスマスツリーの周りを、各々楽しそうに滑っている。
 ただしその中に遠巻きにこちらの方をちらちらと見ながら、興奮した様子で話している女性陣もちらほらといて。おそらくヴィクトルの存在に気付いたんだろうなと思いつつ、その光景をぼんやりと眺めた。
 そしてそれと同時に、こちらの世界でも彼はすでにかなりの人気があるんだなと考えていた時のことだ。
 唐突に背後から伸びて来た手に腰をグイと引き寄せられ、さらにクルリと身体を回し、振り向くように方向転換させられたから驚いたなんてものではない。
 しかも屋外リンクのために氷の状態があまり良くなかったため、その時に運悪くブレードが溝にはまりこんで転びかけてしまう。
 したがって慌てて背後のヴィクトルの胸元にもたれかかるようにしてバランスを取りながら、ふうと息を吐いた。
「――っと、危ない危ない。で、いきなりどうしたの?」
「ごめん。人が増えてきたし、そろそろリンクから上がった方がいいかなと思って」
「それもそうだね」
 派手に滑って一般の人とぶつかったら危ないしねと口にしながら、一つ頷く。
 ただ何となくヴィクトルの一連の仕草に既視感があるような気がしたのに、彼にもたれかかるような格好のまま、しばし考えこんでしまった。
「うーん……」
 普通に考えて、リンクから上がるのであれば、声をかければいいだけだ。
 それをあえて、今のように半ば無理矢理に身体を引っ張るようなことは、普段のヴィクトルであればまずしない。というのは、彼と数週間ほど過ごして把握済みである。
 そこでふと十年後のヴィクトルが、ファンの女性に取り囲まれそうになった際に勇利に見せる気遣いと、今の態度が重なることに気付いて、ああと小さく声を漏らした。
「でもなぁ」
 勇利の記憶だと、彼にそういうことをされるようになったのは、恋人関係になってからのことなので、ちょっぴり不思議な感じもする。
 それにどういうことだろうと、さらに思考の海に沈みかけたのだが。
 不意に目の前にヴィクトルの顔がひょこりと現れたために、それ以上深く考えるのは止め、まあいいかと受け流した。
「勇利、どうかした?」
「いや、大したことじゃないんだけど。今のヴィクトルって、僕の知ってるヴィクトルとやっぱり似てるなあと思って」
「はは! いきなり黙るからどうしたのかと思ったら。勇利曰く同一人物らしいから、そりゃあ似てるだろうね」
 面白いことを言うなあと言いつつ、腰に回された手にグッと力を込められる。それをきっかけに互いの頬が触れそうなほど近付いたところで、どちらともなく口元を緩ませ、吹き出した。
 そうして一切取り繕うことなく腹の底から笑うことで、なんだかお互いの距離がさらにもう少しだけ近付いたような気がした。

 そんなこんなで、二人はワイワイと話しながらリンクから上がる。それからベンチに座ってスケート靴を脱いだところで、勇利はヴィクトルからジャケットを借りたままになっていたことに気付くと、慌ててそれを返した。
「ずっと借りっぱなしでごめん! 寒かったよね。身体冷えてない?」
「動いてたから大丈夫だよ。それにこっちの寒さには慣れてるし。
 でもせっかくだし、園内にある喫茶店で暖まっていくのはどう?」
「いいね、それ」
 というわけで二人は近くの喫茶店に立ち寄ると、ジャムを舐めつつのんびりと紅茶を飲む。そうして一息ついてから帰路につくのであった。



 二人は家に到着すると、まずはリビングルームのソファに座って人心地つく。
 しかしヴィクトルは何を考えているのやら。いつものように深く腰掛けてテレビを見るのではなく、隣に座っている勇利の方へズイと顔を寄せてくるのに、勇利は思わず視線をそらした。
 ただ少し前にリンクで後ろから腰を掴まれた時にも、今と同じような距離感だったのだ。だからそんなに気にすることは無いだろうと思うのだが。
 いざこうして家でそれをやられると気恥ずかしく感じるのは、二人きりという状況のせいだろうか。
 なんてことを馬鹿みたいにつらつらと考えて気を紛らわせていると、彼は常よりも明らかに興奮した様子で、勇利の両肩をがっしりと掴んできた。
「さっきからずっと考えていたんだけど……今日の勇利の滑りを見て、未来の俺がコーチをするって言いだした理由が分かった気がする。
 勇利のスケーティングは、身体が音楽を奏でているみたいに滑らかで美しいんだ。いつまでも見ていても飽きない」
「うっ、うん。ありがとう」
 思ってもみなかった、ヴィクトルからの最上級の褒め言葉だ。嬉しくないはずが無いだろう。
 おかげで視線が一点に定まらずにあちこちふらついてしまう。
 さらに辛うじて口にした礼の言葉も中途半端なものになってしまったので、ヴィクトルにも様子がおかしいのがバレてしまったのか。様子を伺うようにさらに顔を近付けられたのに、ヒッと情けない声を漏らしながら勢いよく立ち上がった。
「ぼっ、僕、夕食の準備、してくるからっ!」
「もう? まだ六時過ぎだし、もう少しゆっくり休めばいいのに」
「今日は久しぶりに滑ったから、お腹すいちゃったなー……なんて。あはは」
「ん、言われてみればたしかに。なら俺も手伝うよ」
「いやいや、料理はもう出来てるから! あとは温めてお皿によそうだけだし、ヴィクトルはもう少しゆっくりしててよ。出来たら呼びに来るからさ」
「ええ? でもいつも勇利一人に任せっきりだし、休日くらいは――」
「いいのいいの! そもそも僕はそれが今の一番の仕事なんだから。仕事を取られて、この家から追い出されても困るし」
 なんて冗談めかした台詞をやや上擦った声音で口にしながら、まるで逃げ出すように一目散にリビングルームを出る。さらにダイニングルームを通り抜け、その先にあるキッチンへと逃げ込む。
 そして昨日の間に作っておいたビーフストロガノフの入った小さめの鍋を冷蔵庫から取り出すと、そのままガスコンロの上に勢いよく置いて火をつけた。
 そこで一息ついたのも束の間。唐突にヴィクトルがキッチンの入り口から顔を出したから驚いたなんでものではない。
 おかげでひどく動揺してしまったのもあり、彼が口にしている言葉の内容をほとんど理解出来ない有様だ。
 ただ彼のまとっていた雰囲気は、先ほどと同様に常よりも高揚している様子で、さして重要な内容を聞いてきたようには見えない。それに早く一人きりにして欲しいというのが今の一番の気持ちだ。
 したがって訳が分からないままにこくこくと頷くと、彼は嬉しそうな表情を浮かべながらありがとうと口にし、再びリビングルームへと戻っていった。
「はー……びっくりした。いきなりどうしたんだろう」
 まあ食事の時に聞けば良いかと独り言を呟きながら、おたまで鍋の中身をかき混ぜる。
 それから先に述べた通り。本当に食材を温めてお皿によそうだけなので、動揺して常よりも若干もたつきながらも、かれこれ十五分ほどで夕食の準備をすべて完了するのであった。

 というわけで再びリビングルームまでヴィクトルを呼びに行くと、彼は相変わらずソファに腰掛けている。
 そして手に持っている何かを熱心に見つめており、勇利がやって来たことにもまるで気付いていない様子であった。
「あれ?」
 いつもはすぐに人の気配に気付くヴィクトルにしては、珍しい反応である。したがって興味本位から彼の手元をひょいと覗き込んでみると、どうやらスマートフォンで何かの動画を見ている様子だ。
 ただ画面が肌色一色だったために、内容がよく分からない。そこでバレるのを覚悟で、ソファの背もたれから上体を乗り出し、さらに画面に顔を近付けた瞬間のことだ。
 パッと画面が切り替わり、見慣れた自分自身の顔が映し出される。しかもその表情は明らかにだらしなく緩んでいたのに、嫌な予感を覚えた直後。
 動画の画面が大きくブレるのと同時に、スピーカーから『そこ、きもちひいよぉっ』なんてベタベタな台詞の嬌声が鳴り響くのだ。
 さらにそれから一拍置いたところで、陰茎の根元までズッポリと埋め込まれ、周囲が泡立った精液でドロドロになった結合部の卑猥な光景が映し出されたのにしばし固まった。
「……えっ?」
 なぜ、ヴィクトルがそんな動画を持っているのか。訳が分からないのに、顔を思いきりひきつらせる。
 しかし彼の持っている端末をよくよく見てみると、見覚えのある水色のカバーがかぶせられている。つまり今彼が手にしているのは、勇利がソファの上に起きっぱなしにしていたスマートフォンに違いない。
 ということに気付いてからの勇利の行動は早い。ひとまずすべての感情を脇に置いておくと、ソファの背もたれから乗り出すようにしながら彼の手元に右手を伸ばした。
 ただし焦りすぎていたせいでバランスを崩してしまったから大変だ。ソファに置かれていたふかふかのクッションに無様に顔面から突っ込んでしまって、恥ずかしいったらない。
 だが怪我の功名と言うべきか。いきなりの乱入にヴィクトルがひるんだ隙に、彼の手元から何とか自身のスマートフォンを取り戻すことに成功するのであった。
「びっくりした……誰かと思ったら、勇利か。頭から落ちてたけど大丈夫? 怪我とかしてない?」
「まあ、なんとか」
 幸い特に痛むところも無いので、大丈夫と答えつつ、ヴィクトルの手助けを借りてソファに腰掛け直す。
 しかし動画が未だ再生中のままになっていたのか。タイミング良く、再びスピーカーから自身のピンク色の嬌声が聞こえてきたのにビクリと大きく身体を揺らした。
「うわっ」
 色々と言い訳出来ない状況に、もう泣きそうだ。でもそのままにしておく訳にもいかないので、慌ててホームボタンを押して強制的に動画の再生を止める。
 それから目元と口元をひきつらせながら恐る恐る顔を上げると、目の前の男は場にそぐわぬ笑みを浮かべており、何を考えているのかはさっぱり分からなかった。
「さっきの、見ちゃった……んだよね?」
 なんて具合に確定事項を再びたずねてしまったのは、あんまりにもあんまりな状況に、藁にもすがりたい気持ちだったからだと思う。
 しかしはかない願いは、ヴィクトルが頷くことで無情にも一瞬で消し飛ぶのであった。
「ううっ。スマートフォンにパスワードロックかけてたのに、どうやって開けたのさ」
「以前俺にアルバムを見せてくれた時、俺の誕生日を打ち込んでたのを覚えてたんだよ」
「へ?」
 まさかそこまで見られていたとは露ほども思っていなかったのもあり、ポカンと口を開けた間抜けな表情をさらしてしまう。
 そうして呆けている間にもヴィクトルの言葉は続き、曰く、昼間に公園で見た勇利の滑りにいたく刺激を受けたので、以前彼に見せたエキシビションの動画をもう一度見ようと思ったのだということであった。
 ただしあの動画は、ずいぶんと前に撮ったものなのでなかなか見つけられず。適当にあたりをつけて開いたものが、よりにもよってあのしょうもない動画だったということらしい。
「はあ……そっか」
 もう一度動画を見たいと思ってくれたのは、まあ嬉しくはある。
 しかし、しかしだ。
 それならそれでせめて一言声をかけてくれれば良かったのにと愚痴ると、ヴィクトルは不思議そうな表情を浮かべながら首を傾げているのだ。
 そこでそういえば、先ほど夕飯の用意をしている時にヴィクトルがキッチンまでやって来たことを思い出し、そういうことかと目元を手の平で覆った。
「もしかして、さっき声かけてきたのってその件だった?」
「うん、そうだよ。その様子だと、もしかしてちゃんと聞こえてなかったかな」
 ごめんと謝られるものの、そもそもは聞こえない時点できちんと聞き返さなかった自分が百パーセント悪い。したがって自業自得だからと答えた。
 それから手に持っていたスマートフォンをさりげなくズボンのポケットに仕舞いこみつつ、だから動画を撮るのは嫌だったんだと恨み節をぶつぶつと呟く。
 しかしなんだかんだ言いつつも、これまでずっと消さずにいた自分も大概なのである。
 ということに気付くと、途端にこみ上げてくる羞恥心に頬を染める。
 さらにそこで、さっきの動画で勇利とセックスしていた相手って誰なのと、オブラートに包むことなく直球で聞かれたのに耳まで赤くしながら肩を揺らした。
「えーっと、それは……」
「いや、聞かなくても何となく分かってはいるんだ。おそらく、十年後の俺だよね。それで俺と勇利は、付き合ってる」
 そこで一度言葉を切ると、確認するようにまっすぐ見つめられる。おかげで思わず馬鹿正直に頷いてしまうと、やっぱりねと目を細められた。
「前に勇利は違うって言っていたけど、この家に同居してるって聞いた時点で、おかしいなと思っていたんだ。そもそも俺って、誰彼構わず部屋の鍵を渡すような性格じゃあ無いからね。
 でも付き合ってるなら付き合ってるで、教えてくれれば良かったのに」
「うう、そんな無茶言わないでよ。そもそも僕、こういう話とか苦手だし。それにいきなり同じアルファ性の男と付き合ってるって言われても、ヴィクトルだって困るでしょ」
「うん? なぜ。俺はそういうの気にしないって言わなかったっけ」
「言ってたけど、そういう問題じゃなくてさ。やっぱり未来では付き合ってるんですよって言われたら、気を使う部分とかあるだろうし。
 でも今のヴィクトルは、ここでの生活があるわけじゃないか。だからそういう意味での面倒はかけたくないんだ」
 その言葉に一応は納得してくれたのか。ヴィクトルは指先を顎に添えながらそっかと呟いている。
 しかしそれに胸を撫で下ろしたのも束の間。勇利に興味が出てきたと血迷ったことを突然言い出したのに、思わず目蓋を半分閉じてジト目になった。
「いや……だからそういうのはいいって今言ったじゃないか」
「別に気を使っているわけじゃないよ。心からそう思ったから、それを素直に口にしただけ」
「はあ」
 まったく、いきなり何を言い出すのやらである。
 どこまで本気なのか分からないのが、また曲者だ。
 ヴィクトルと付き合っていることもバレてしまったし、指輪をまたはめようかとも思っていたのだが。この調子だと、指輪をはめたらはめたでまた面倒なことになりそうだし、しばらくそのままにしておく方が無難だろう。
 なんてことを考えながら、わざと大人ぶるようにこれよみよがしな大きなため息を吐きつつ、ちょっぴり動揺している表情を隠すために右手で顔を覆った。
「あのね、ヴィクトル。しっかりしなよ。この間、この家に女の人を連れて来てたこと、もう忘れたの」
「ああ、彼女とはあの時きりだよ」
「え? 家に連れて来るくらいだったのに?」
「うーん、家に連れて来たというか……どちらかというとあれは不可抗力だったんだけどね。
 あの時は、道で運悪くパパラッチの人に見つかっちゃったんだ。それでずっと追いかけてくるから、彼女が怖がっちゃって。一人で家に帰すのも可哀想だったから、ひとまず俺の家に避難したんだよ。まあ付き合ってることを隠してる訳でも無かったし、良いかと思って」
 その結果これだよと笑っているので、何かと思ったら。ソファの脇に置いてあったマガジンラックに手を伸ばし、そこから一冊の雑誌を抜き出して手渡される。
 するとその雑誌の表紙に、『ヴィクトル、まさかの三角関係!?』なんてセンセーショナルな煽り文句が大きく書かれていたのに驚いて目を点にした。
「もしかしてこれ……あの女性と僕が鉢合わせちゃった時のことだったりしないよね」
「はは、残念ながら当たりだよ。普段はほとんどデタラメな記事だから、こういうのはまったく興味無いんだけど。それは珍しく当たっていたから記念に買ったんだ」
「いっ、いやいやいや! 全然笑い事じゃないし、ちょっと待ってよ」
 そこで慌てて中身を確認してみると、数ページにわたって関連の記事が掲載されている。
 しかも三人目の女性として、自分と思われる人影がぼんやりと映り込んでいる写真まで載せられていたのに、あちゃあと声を漏らしながら天を仰いだ。
「……ごめん。あの女の人と別れることになったのって、僕のせいだったのか。僕、男だし、アルファだから大丈夫かなと思ってたんだけど。そういう問題じゃ無かったみたいだ」
「こうなったってことは、いずれにせよ別れる運命だったんだよ。仕方がないことだって俺は思ってる。だから勇利も気に病まないで。
 それより俺の方こそ、勇利を巻き込むことになっちゃって悪かったよ。こんな写真を撮られることになるって分かっていたら、アパートメントに住んだんだけど」
「いや……そもそもは僕がヴィクトルの家に勝手に上がりこんでたのが原因だから」
 こうして改めて考えてみると、ヴィクトルには随分と迷惑をかけまくっている事実に、がっくりとうなだれる。
 しかし肝心なヴィクトル自身はというと、本当にさして気にしていないのか。まあまあと言いながら勇利が手に持っていた雑誌を抜き取り、その話はもう終わりだというように、さっさとラックに戻してしまった。
「というわけで、彼女との関係は、あの時で完全に終わっているんだ。それから勇利と出会ったわけだけど……」
「わっ! なっ、なに」
 そこでヴィクトルは、悪戯っ子のような表情を浮かべながらじりじりと顔を寄せてきたので、その圧に押されるように上体を仰け反らせる。
 しかし背後についていた手の指先が、運悪くソファの境目にはまってしまったせいで、上体を支えきれずに仰向けの格好で無様に転げてしまって恥ずかしいったらない。
 それからぶつけた後頭部をさすりながら反射的に閉じてしまった目蓋を開けると、目の前に四つん這いの格好のヴィクトルがいたのに、少しばかり冷や汗を垂らした。
「えーと、ヴィクトル?」
「支えるのが間に合わなくてごめん。頭ぶつけちゃったみたいだけど、大丈夫だった?」
「あ、いや。ソファの上だから全然痛くないよ。ありがとう」
 そこで目の前にヴィクトルの手が伸びてきたので、上体を起こすのを手助けしてくれるのかなと思いきや。実際にはそうではなくて、顔の両脇に手をつかれる。
 そしてそこまでされると、さすがの勇利も妙な空気をはっきりと感じて。戸惑いの視線を目の前の男に向けると、彼は思わせぶりに目をスッと細めた。
「これ、さっき見た動画と似た体勢だね」
「へ?」
「たしか動画だと……もうちょっと、こんな感じだったっけ」
 直後、両足の膝裏に手を差し込まれ、肩の上に担がれる。さらにその状態で再び顔の脇に手をつかれたせいで、下肢に体重がかかって互いの陰部がギュウと押し潰されたからたまったものではない。
 何だかんだと感じる場所なので、思わず反射的にくっと小さく息をのんでしまう。
 しかもその声を聞いたヴィクトルは、含み笑いを漏らしながら、わざとらしく人の耳元でかわいいなあと呟くのである。
 それに一体何なんだと思いながら顔を上げたところで、カシャリというシャッター音が鳴り響いたのに思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
「へあっ? なっ、なに」
「ふふ。これ、もう一人の俺が見たら絶対やきもち焼くよ」
「?」
 何のことかさっぱり分からないのに首を傾げていると、ヴィクトルはいつの間にか二人の頭上に伸ばしていた手をおろす。
 その手には勇利のスマートフォンが握られており、差し出されたので素直に受け取ると、画面に思わせぶりに重なり合った二人の姿が映されていたのに端末を落としかけた。しかしすぐに気を取り直すと、ジト目になりながら何これとたずねた。
「何って、記念撮影だよ。勇利が元の世界に戻ってしまっても、寂しくならないように」
「はあ、そっか」
 そこで先ほどのしょうもない動画を十年後のヴィクトルに撮影された時にも、同じようなことを言われたのを思い出し、思わず真顔になってしまった。
 さすが同一人物なだけある。
 たしかあの時には、俺がいない時も勇利が寂しくならないように、なんてことを言っていただろうか。
 そしてそれに散々文句を言いつつも、何だかんだとその動画に何度かお世話になってしまったせいもあってか。結局消去出来ずにいたせいで、今回二十三歳のヴィクトルにそれを見られてしまったというわけだ。
 まあそれはともかくである。
 そこで反れかけた思考回路を元に戻そうとゴホンと咳払いをしながら、目の前にあるヴィクトルの肩口をグイと押して上体を起こした。
「ともかく悪ふざけはもう終わりだよ。それよりせっかく温めたご飯が冷たくなっちゃうし、いい加減夕飯食べないと」
「うーん、勇利が年上に見える」
「事実、今は六歳も年上なんだけどね」
 いいから早く僕の上から退いてと言いながら、ヴィクトルの額を指先でペシリと軽く叩く。すると何故か彼は、少しばかり驚いた様子で額を押さえているのだ。
 それにどうしたのだろうと思いつつ首を傾げるのと同時に、ヴィクトルはそれはもうほれぼれとする綺麗な笑みを向けてくる。
 ただし彼がその表情を浮かべる時、往々にして勇利にはろくなことが起こらない。というのは、元の世界で彼と共に過ごしてきた中で学習済みだ。
 したがって反射的にうつ伏せの格好になり、彼の下から半ば無理矢理に抜け出そうとしたのだが。それよりも一拍早くヴィクトルが背中に覆い被さってきたせいで、それが叶うことは無かった。
「う、ぐっ! ヴィクトル、重いってばっ。いきなり何っ」
「アルファ性のせいかな。勇利って、そうやってちょっと無防備なところがあるから、未来の俺も心配してるんだろうなあ」
「――っ、いだだっ!!」
 好き放題な言われように、何か言い返そうと振り返ろうとしたのだが。
 その前にうなじのあたりにヌルリとしたものが這い、その直後にそこをガブリと噛まれたから驚いたなんてものではない。
 もしもオメガ性であれば、そこは急所だ。だから色っぽい展開になったのかもしれない。しかし勇利はアルファ性である。
 したがってそこから広がる鈍い痛みに色気も何もなくジタバタともがいていると、何度か名残惜しげにあぐあぐとそこを甘噛みされたところで、ようやく解放された。
「うう。もう、痛いなあ。自分じゃ確認出来ないけど、跡残っちゃってるんじゃない? これ」
「うん。くっきり俺のキスマークが付いてるね」
「あのね……。大体キスマークってレベルじゃなくて、歯形になってるでしょ」
 そこでやれやれと頭を振りながら、肘を後ろに引いてヴィクトルの身体を押しのけると、ようやく悪ふざけに満足したのか。案外呆気なく退いてくれる。
 おかげでようやく、彼の身体の下から抜け出すのに成功するのであった。

 ちなみに。彼が勝手に取った写真は、ミーハー心が顔をのぞかせたのもあり結局消すことが出来なかった。

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