アイル

アルファとアルファに愛は生まれるか 拝啓、十年後の君へ-5

「夜遅くに悪いんだけど、少しだけいいかな」
 ヴィクトルにそう声をかけられたのは、手持ちのクレジットカードが使えないことが発覚してからさらに一週間後のことであった。

 その日の勇利は、相変わらず金策に関する根本的な解決方法が見つからないのにどんよりしつつ、いつものように就寝前に風呂に入った。それから自室に戻ろうと廊下を歩いていると、リビングルームに繋がるドアが開いて、隙間からヴィクトルが顔を出したのだ。
 それにどうしたのだろうと立ち止まると、手招きされたので素直に従う。そして二人並んでソファに腰掛けたところで、目の前に白い横長の封筒を差し出されたのに目をパチパチと瞬かせた。
「ん? なにこれ」
「いつも色々家のことをしてくれているから、そのお礼」
「えっ? でもそもそもハウスキーピングをするお礼に、この家に居候させてもらってるわけだし。それで十分なのに」
「まあまあ、いいから」
 開けて開けてと促されたので、戸惑いながらも封筒のフタをめくっておそるおそる中を覗き込んでみると――まさかの。ロシアのサンクトペテルブルクにあるプルコヴォ空港からフランスのニースにあるコート・ダジュール空港までの飛行機の往復チケットに加え、世界選手権のチケットが入っていたのに手をぶるぶると震わせた。
「こっ、こっ、これ……っ!?」
「そう、飛行機の往復チケットと世界選手権の観戦チケット。飛行機の方は俺の隣の席がまだ空いていたから、そこにしておいたよ。
 ただ世界選手権の関係者パスは、もともとの枚数が足りないとかでどうしても手に入れられなくて。でも用意したそのチケットも、オールイベントのものだから公式練習からエキシビションまで見られるよ」
「へっ!?」
 そこで慌てて世界選手権のチケットをよくよく見てみると、さりげなくプラチナと書かれている。そしてそのゴージャスな名の通り、座席位置も最前列の席であった。
 つまり一番お高いチケットで間違いないだろう。
 でもちょっと待ってくれと思う。数日前に公式サイトでチケット情報をチェックした時に表示されていたプラチナ席の価格は、確か日本円に換算して十万以上していたはずだ。
 それに嫌な予感を覚えて、飛行機チケットの座席の種類を確認してみる。
 すると予想通り。座席区分の略号が、見慣れたエコノミークラスを表す『Y』ではなく、ビジネスクラスを表す『C』となっていたのに、思わず天を仰いだ。
「うう……ありがとう、ヴィクトル。すごくすごく嬉しい。けど、こんなにしてもらって申し訳ないよ。だって洋服とかまで、合間合間にたくさん買ってもらっているのに。僕、一体どうやってお礼をすればいいんだろう」
「お礼なんて気にしないで。さっきも言った通り、これは日頃の感謝の気持ちだから。
 あ、そうそう。それと宿泊場所だけど、そっちの方も俺の隣室をおさえてあるから。会場では別行動になっちゃうけど、それ以外の食事とかは一緒に食べよう。
 まあそういう訳で、忘れずに荷造りをしておいてね」
 そこで器用に片目をつぶってウインクを投げられたのに、ビクリと身体を揺らす。
 どこまでもスマートで格好良くて優しくて、勇利の知っているヴィクトルそのままだ。
 それに気付いた途端、胸が一杯になって。たまらずソファから立ち上がると、逃げるようにして自室へと駆け戻るのであった。

 そうして自室に戻って一人きりになったところで、ベッドに腰掛ける。
 それから手に持っていた白い封筒をゆっくりと開いて中を覗きこんでみると、確かに飛行機のチケットと観戦チケットが中に入っていたのに、先ほどの出来事は夢では無かったんだと確信した。
 それと同時にようやく現実感がじわじわと湧いてきたのに、たまらずベッドの上に仰向けの格好で寝転がり、馬鹿みたいに一人でごろごろと転げながら喜びを噛みしめた。
「無理だってほとんど諦めてたけど、まさかこんな展開になるとは」
 本当に夢みたいだ。
 そこで飛行機のチケットの出発日時を確認すると、およそ一週間後になっていたのにいそいそと上体を起こす。そしてうきうきとしながら、そろそろ荷造りを始めた方が良いなと独り言を呟いた。
「なにしろ今は、所持品らしい所持品なんてほとんど無い状態だからなぁ。
 とりあえず洗面用具とパジャマとかはホテルの物を使うとして。替えの服と下着を何枚かと……あとは貴重品類を持っていけば大丈夫かな」
 部屋に備え付けられている大きなクローゼットを開け、中から自分で購入した下着と、あとはヴィクトルが気にかけて購入してくれたセーターやズボン類を数枚取り出すと、それだけでこんもりとした小さな山が出来上がる。
「旅行っていっても、たった数日程度だし。そんな荷物は無いはずなんだけど、やっぱり冬場だから洋服がかさばるな」
 それでも現役時代には、大会時ともなると大きなスーツケースを数個持って移動していたので、それと比べると夢みたいな身軽さではある。
 ただしそこでそれらの荷物を入れるカバンが無いことを思い出し、あっと小さく声を上げた。
 それでも物は試しと、こちらの世界にやってきた時に身につけていたリュックに詰め込んでみたのだが。やはりセーターがなかなかの曲者で、中にどうしても入りきらない。
 したがってヴィクトルに適当なカバンを借りようと立ち上がったところで、リュックから取り出したパスポートがふと目に入ったのに足を止めた。
「――あ、そういえば。僕のパスポートとか、ビザとかってどうなってるんだろう。仮に飛行機のチケットがあったとしても、そっちがまずいとそもそも出国出来ないんじゃ……?」
 ちなみに現在所持しているパスポートは、有効期限が十年間のものだ。ただし二十代の中頃に更新したもののため、ここの世界では未来の日付になってしまう。つまり、有効期間外ということだ。
 というかそれ以前に、自分の国籍が現在日本にきちんとあるのかどうかも甚だ疑問ではあるのだが。
 なんてことを考えつつ、急いでパスポートの表紙をめくって該当欄を確認してみると、有効期限がきちんとした表記に勝手に修正されているのである。
 それならもしかしてと期待に胸を膨らませながら査証ページに貼り付けられているビザを確認すると、そちらも同じくいい感じに修正されていたのに、ラッキーと声をあげた。
「良かった良かった。やっぱり夢の中だから、そこら辺はご都合展開なのかなぁ」
 それならクレジットカードの方も何とかしてくれれば良いのにと思うものの、下手したらロシアから出国出来なくなるところだったので、これ以上贅沢は言うまいと慌てて頭を振る。
 そしてヴィクトルにカバンを借りるついでに、このことも教えようとパスポートをズボンのポケットにねじこみつつ、再びリビングルームへと足を向けるのであった。

「ねえヴィクトル! これ、見て見て」
「うん? どうしたの」
 ヴィクトルはソファの上に長い足を乗せ、さらに背もたれに肘をついたくつろいだ格好で、寝るまでの暇つぶしにテレビのニュース番組を見ていたようだ。
 しかし勇利がやってくると、柔らかな笑みを浮かべながら顔を上げる。そしてすぐにソファから足をおろしてくれたので、遠慮無く空いた空間に座り、ポケットに入れていたパスポートを取り出した。
「パスポートとかビザの期限、確認したら大丈夫だったんだ」
「ああ、そういえばすっかり失念してた。パスポートの問題もあったのか」
「そうなんだよ。しかも僕、パスポートを前回更新したのって五年くらい前なんだ。だから、本当だったら有効期限がアウトのはずなんだけど。なんかよく分からないけど、良い具合に修正されてて」
 そこでページをめくってほらここと指先で示すと、ヴィクトルは興味深げにしげしげと勇利のパスポートを眺める。
 しかしすぐに不思議そうな表情を浮かべながら顔を上げたので、どうしたのかと思ったら。もしかして勇利って十九歳なんじゃないのと言われたのに、ぽかんと口を開けた。
「僕が十九歳? なんでそうなるの?」
「ああ、いや。言い方が悪かった。つまり二十九歳としてここにいるんじゃなくて、十九歳の勝生勇利として存在しているんじゃないかってこと。
 勇利が二人この世界にいると矛盾が生じることになるから、それを無くすためにそういうことになっているんじゃないか――っていうと分かりやすいかな」
「はぁー……そっか。そういう考え方もあるのか。僕は単純に、妙にリアルな夢でも見てるのかなー……程度に思ってたんだけど」
 ただし先のヴィクトルの言葉をきっかけに、先日クレジットカードが一切使えなかったことを思い出すと、腑に落ちる感覚を覚えてそっかと口にした。
「どうしたの?」
「そういえば、この間弾かれたクレジットカードって、成人過ぎてから作ったやつだったなって思い出して」
 だからもしかして、駄目だったのかもと呟いた。
 つまり十九歳よりも前に所持していなかった物は、こちらの世界では存在していない。イコール、使用出来ないということだ。
 もちろん真相は定かではない。
 ただそう考えるのが、一番しっくりとくるような気がした。
「でもなあ……そうなると、こっちの世界の僕ってスケートの選手をやっていないってことになっちゃうのかな」
「勇利は、スケートが好きで好きでたまらないんだろう? だったらきっと、こちらでも遅かれ早かれそういう道を歩むんじゃないのかな」
「うーん、そうなってくれると良いんだけど」
「なるさ。勇利のことは、氷の神様の方が絶対に離さない」
「あはは。ヴィクトルに言われると、説得力がすごくあるよ」
 だってその氷の神様という存在は、勇利にとってヴィクトルなのだ。
 だからその彼がそう言うのならば、そうに違いないと思えてくるから不思議なものだ。
 そしてそのせいだろうか。それまで胸の内にちょっぴり生じていた不安も、スーッと引いていくから不思議なものだ。
 そこでこの部屋に来た本来の目的を思い出すと、手に持っていたパスポートをポケットに仕舞いながら、旅行用のカバンを貸してもらえないかなと口にした。

戻る