アイル

アルファとアルファに愛は生まれるか 拝啓、十年後の君へ-7

 四月に入ると、フィギュアスケートの選手たちはオフシーズンとなる。そして次のシーズンに向けて新しいプログラム作りに入るのだ。
 そのせいか。ヴィクトルは家にいる時でも、イヤホンを耳に装着し、目を閉じて何やら考え事をしている時間が多くなった。
 そうなると当然勇利と話す時間もガクッと減るものの、そんな彼の横で一緒に静かな時を過ごすのも結構好きだったりする。
 というわけでその日の週末も、ヴィクトルが取材を受けてサンプルでもらったという雑誌をじっくりと読んでいると、それまで黙って目を閉じていたヴィクトルが唐突に顔を上げる。そして手に持っていた紙に何やらものすごい勢いで書き付けてから、イヤホンの紐を引っ張って耳から引き抜いた。
「勇利! 良ければ公園へ行かない?」
「もちろん構わないけど、また唐突だね」
「ふふ。新プロの構想が大体決まったら、何だか嬉しくなっちゃって」
 それから手を引かれながら外へと繰り出し、車で三十分ほどのところにある、海沿いの公園へ向かった。

「今日は暖かいね。ついコート羽織ってきちゃったけど、いらなかった」
「日中の最高気温、十五度になるらしいよ」
「ワオ! ほんの数日前まで五度とかだったのに。春が近付いてきてるんだなあ」
 なんてことをぽつぽつと話しながらほとんど人影のない小道を通り抜けると、ほどなくして公園の端っこにたどり着く。すると見覚えのある海が見えてきたのに、思わずやっぱりこの公園かと呟いた。
「あれ? もしかして、この公園にも来たことあった?」
「うん。こっちの公園も、ちょっと前にスケートした公園と同じく、ヴィクトルに連れられて何回か、ね。車を停める場所がいつもと違ったから、最初は気付かなかったけど。ここまで来たら間違い無いや」
 そこで一歩足を踏み出してヴィクトルの前に出ると、海に降りる階段の前で立ち止まる。
 そしてそれから。こっちに来る直前にもここに一人で来てたんだと口にした。
「へえ、そうだったんだ」
「でも……元の世界のヴィクトルと喧嘩しちゃったから、家を飛び出しちゃって。それでここに来たんだけどね」
「ああ、ごめん。それなら場所を変えた方がいいかな。ここら辺、他にも公園がたくさんあるし」
「ううん。ここ、僕好きなんだ。日本の長谷津って場所に僕の実家があるんだけど、そこに似てるから」
 先ほどヴィクトルが言ったように、春の気配が近付いて来ているからだろうか。ここの世界に来る前はモノトーン一色だった風景がほのかに色づきはじめており、記憶の中のそれと重なる。
 それに思わず口元を緩ませながら階段に腰掛けると、ヴィクトルもその隣に並んで座った。
「ところで俺と喧嘩したって初めて聞いたけど、何が原因か聞いてもいい?」
「ああ、そういえば話してなかったね」
 こちらに来たばかりの時は、気持ちの整理がついていないのもあり、あえて口にしなかったのだと思い出す。
 でもあれからかれこれ四ヶ月ほど経過し、今ではすっかりと気持ちの整理はついているので、話すことに戸惑いは無い。
 それに何だかんだと言いつつ、目の前のヴィクトルは十年後のヴィクトルと一応は同一人物である。というのもあり、ちょっぴり断罪の気持ちを滲ませつつ、ぽつりぽつりと経緯を呟いた。
「良い年して恥ずかしい話ではあるんだけど、僕が本当に悪いんだ。その……ヴィクトルが仕事から帰ってきた時、空港で偶然鉢合わせたっていうオメガ性の人の発情臭をさせてたから、ついカッっとしちゃって」
「そのオメガの人に、嫉妬したっていうこと?」
「まあ一言で表現するとそう。なんというか、それまで色々あったんだけど。そういうことが積み重なって、アルファの自分に自信がすっかり無くなっちゃって。で、結果として爆発してしまったというか」
「そっか」
 するとそれを聞いたヴィクトルは、意外にもまいったなあと口にしながら肩をすくめるのだ。
 しかしその言葉の真意がさっぱり分からないのに首を傾げると、それに気付いたのか。彼はチラリと視線を向けながら苦笑を漏らした。
「この間の世界選手権のバンケットの時、俺もうっかりオメガの発情臭にやられちゃったじゃないか。でもあの時、勇利は全く怒らなかったなって思ってさ。
 だから十年後の俺は、勇利に嫉妬されて羨ましいなって思ったんだよ」
「え、あ」
 意外な告白に、驚いて言葉を詰まらせてしまう。だってそれってつまり、そういうことだ。
 ただまさかそんなことを言われるとは夢にも思っていなかったのもあり、馬鹿みたいに呆けた表情を浮かべながら、横に座っているヴィクトルのことを見つめてしまう。
 すると彼のスカイブルーの瞳は波のようにゆらゆらと揺れており、彼にしては珍しくちょっぴり緊張しているように見えた。
 その様子から察するに、おそらく先の言葉は冗談ではない。
 でもだからこそ、この先の言葉を聞いてはいけないと思った。
 だから咄嗟に両手を伸ばして、彼の口を塞ごうとしたのだが。結局間に合わず、指の隙間から零れ落ちた言葉に肩を大きく揺らした。
「俺は、勇利のことが好きなんだ」
「ああ……」
 その言葉をきっかけに、今さら走馬燈のように、動画を見られた時のこと、そして世界選手権後の出来事を思い出す。
 動画を見られた時は、いきなり押し倒されて一瞬ドキリとしたものの、あのビデオに触発されたのか、あるいは悪ふざけかなと思って深く考えなかった。
 そして世界選手権の時は、小さな子どもが発情臭にやられて正体をなくしてしまっているのを、仕方ないなあと宥めているような気持ちだったというのが一番近かったように思う。
 今にして思えば、ここまでよくもまあ何も考えずに流せてきたなという感じである。
 ――いや。あえて考えないようにしていたのかもしれない。
 でもいざ好きだとはっきりと想いを告げられてみると、何も言わずに何もかも受け入れてきた自分は、ひどく身勝手にも思えた。
 だって受け入れていたくせに、いざ好きだと言われたら、それにすぐに答えられないのだ。
 ただそこに一ミリも気持ちが無かったかというと、それはそれで違うような気もする。
 なんてことを考えている内に、自分で自分の気持ちが分からなくなってきて。思わず瞳を揺らしてしまったのを、ヴィクトルにも気付かれてしまったのか。困ったような表情を浮かべながらも、頬に手を添えてくれる。
 そしてそこから伝わる熱は、やっぱり嫌いではなく。むしろ好きなものの内の一つだったのに、顔を俯けた。
「ヴィクトルは、ヴィクトルだ。だから好きって言われて、嬉しくないって言ったら嘘になる。
 ただ……十年後にまた会おうっていうのが正しいんだと思うんだ。こんな答えで、ごめん」
「うん……そうだよね。勇利は十年後の俺と付き合ってるって言っていたから、こうなるだろうって分かってはいたんだ。それでも告白したのは、俺の自己満足。
 でも、十年か。分かった」
 そこでもう片方の手が伸びてくると、頬を両手で挟まれる。その状態で顔が近付いてきたので反射的にギュッと目をつぶったものの、実際にキスをされることはなく。どことなく名残惜しげに、親指でことさらゆっくりと上唇と下唇を数度撫でられただけであった。
「十年後の俺って本当に馬鹿だなあ……勇利っていう恋人がいるのに、他の人間の匂いをさせて帰るんだから」
 まあ俺のことだから、早く勇利に会いたかったんだろうけどと何気なく続けられた言葉に、はっとする。
 まさか、こんな形であの時のヴィクトルの行動の真意を知ることが出来るとは夢にも思わなかったのだ。
 しかし勇利が声をかける前にヴィクトルはさっさと立ち上がると、飲み物を買ってくるといってその場を離れていってしまう。そのために、伸ばした手は空をかいた。

「行っちゃった……」
 今のように二人でいる時に、彼が単独で行動することは珍しい。そこから察するに、恐らくは気分を落ち着けるためにあえてこの場を離れたのだろう。
 その背中が完全に見えなくなったところで、今までになく猛烈に十年後のヴィクトルに会いたくなって。ずっとずっと気になりつつもはめられずにいた指輪を、財布の中からそっと取り出す。
 そして今度は迷うことなく右手の薬指にはめると、胸の内に暖かいものが広がる感覚にほうと息を吐いた。



 それから久しぶりの指輪の感触にためつすがめつそれを眺めていた時のことだ。
 肩に手を乗せられ、少しばかり強い力でグイと後ろに引かれたのに驚いて後ろを振り返る。するとそこにいるはずの無い人物がいたのに、目を大きく見開いた。
「――ヴィクトル?」
 でも彼はほんのついさっきに、姿が見えなくなったことを確認済みだ。
 あるいは驚かすために別の道から戻ってきたのかとあたりを見まわすものの、それらしき道は見当たらない。
 しかしそこで彼の服が先ほどとは異なることに気付いて首を傾げた。
「あれ……?」
 たしかヴィクトルは、それまでざっくりとしたセーターの上に、ベージュの薄手のコートを羽織っていたはずだ。
 それが今は、スーツの上に黒地のロングコートをしっかりと着込み、さらにマフラーまで首元に巻いているのである。
 そしてそれが元の世界で勇利が家から飛び出る前に見た彼の姿と、全く同じだったことに気付くと小さく息をのんだ。
「え?」
 もしかしてここは十年後の元の世界なのでは、という考えがふと脳裏を過ぎる。
 それと同時に、海の方からビュウと冷たい風が吹き抜けていったのに首をすくめながら再び前を向くと、目の前に広がる海は、いつの間にか真冬のモノクロの光景に戻っていた。
 そこで一つの確証を持ってズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。そしていくらかけても繋がらなかったヴィクトルの番号にかけてみると、聞き覚えのある着信音が目の前から聞こえてきたのに思わず泣き笑いのような表情を浮かべた。
 しかし彼は、スマートフォンを取り出すことはしない。
 その代わりに勇利の隣に腰掛けると、マフラーを外して巻き付けてくれた。
「勇利ったら、そんな薄着だと風邪引いちゃうよ」
 頬がこんなに冷たいじゃないかと口にしながら、まるで壊れ物を扱うかのように両頬に手を添えられる。
 でも彼の指先の方がよほど冷たかったのに思わず両手で彼の指先を握ると、その一拍後には両腕できつくきつく抱きしめられていた。
「さっきは余裕が無くて、無理矢理手を出そうとしてごめん。それにオメガの発情臭をつけたままだったのも、デリカシーに欠けてた」
「僕の方こそ、余裕が無かったせいでカッとして、ごめん」
 いつもはただただヴィクトルからのスキンシップを受けるだけのことが多いのだが、今日は溢れ出る想いをぶつけるかのように自分からも力をこめてヴィクトルのことを抱きしめる。
 そしてそれで仲直りだ。
 どちらともなく互いの顔を見合わせながら、泣き笑いのような表情を浮かべる。それから鼻先を擦り合わせると、それまで重くのしかかっていたものが、すっと軽くなるような気がした。
 それにつられて勇利は身体を少しだけ離すと、子どもが楽しかったことを報告するように、これまでのことを口にしていた。
「僕さ、さっき白昼夢みたいなのを見たんだ」
「へえ、それはおもしろそうだ。どういう夢?」
「十年前のヴィクトルに会ったんだ。それで世界選手権に連れて行ってもらったんだけど、なんと! 目の前で優勝したんだ。そのあと五連覇したけど、その記念すべき一勝目! まさかあの瞬間を生で見られるとは思わなかったから、本当に夢みたいで……あの時は、チケットを用意してくれて本当に本当にありがとう。
 ……――なんて、いきなり何言ってんだって思うだろうけどさ」
 でもついさっきまで、ヴィクトルが今座っているその場所に彼はいたのだ。それに勇利が今着ている服も、あちらの世界に飛んだ時とは違う。
 だから夢だと笑い飛ばすことが出来ず、すべて本当のことなんだと自分に言い聞かせるかのように、こうして話しているというのもあるかもしれない。
 しかしそこでヴィクトルの反応が無いのに気付いて何気なく視線を横に向けると、彼は何故か口元を手で覆いながら顔を俯けていた。
「どうしたの? ヴィクトル」
「いや……どうして今までずっと忘れていたんだろうと思って」
「?」
 そこでヴィクトルは顔を上げると、真っ直ぐに勇利のことを見つめる。
 そしてそれから。彼の唇から紡がれた言葉に、瞳を大きく揺らした。
「俺は、勇利のことが好きなんだ」
「――ッ、」
 あんまりにもいきなりの言葉だったので、普通だったら何を言っているのだと笑い飛ばしていたかもしれない。しかしあの時と一言一句違わないその言葉は、深く勇利の胸に突き刺さる。
 そしてその衝撃にまるで動けなくなっていると、顎に指先を添えられて。さらにあの時のことをあえてなぞるかのように、唇を親指の腹で撫でられた。
「ねえ勇利。全部全部、思い出したよ。あれから十年経ったけど、あの時の答えを聞いてもいいかな」
「ああ……」
 あれは妙に明晰な白昼夢だと思っていたのに。
 すべてを理解しているとしか思えないヴィクトルの言葉と行動に、どうやら全てが真実であったらしいと考えるしかない。
 その途端に心臓がドクドクと大きく脈打ち、全身に血液がものすごい勢いで回り出す。そして胸の奥底から熱いものがこみ上げてくる感覚に思わず表情をくしゃりと崩しながら、もちろん僕も愛してるよと素直な気持ちを口にしていた。
 ただその直後に胸の内に甘酸っぱい気持ちが広がる慣れない感覚に、耳まで真っ赤に染め上げたのはご愛敬だ。
 そして一向に引きそうもない頬の火照りを感じながら、空をあおいだ。
「ヴィクトルはさ、あの十年前のこと、全く覚えてなかったの?」
「それが自分でも不思議なんだけど、そうなんだ。でも勇利がさっき十年前の俺に会った時の話をしてくれただろう? それを聞いた途端に、まるで一気に巻き戻すみたいにして頭の中であの時の映像が再生されたんだ。
 ただあんなに重要なことを今まですっかり忘れていたのが、判然としないというか……不思議でたまらないよ」
「そっか、不思議だね。僕が今まさに体験してきて、こっちに戻ってきたから記憶が上塗りされたとかなのかなぁ」
「ふふ、夢があっていいね。勇利の服装も、家を出た時とは全く違ってすっかり軽装だし。油断して冬のロシアに帰ってきた旅行帰りの人に見える」
 最初は俺に見つかり難くするために、わざわざ着替えたのかと思ったんだよと言われ、思わず吹き出してしまう。
 それからいつの間にか互いに馬鹿みたいに笑い合いながら、ああこの人のことが好きだなあとしみじみと思った。
 目の前に広がるモノクロの海と空も、一人で見た時はただただ寂しいばかりだったのに。ヴィクトルと一緒だと、そこに確かに息づく人の温もりを感じた。

「さあ、それじゃあそろそろ帰ろうか」
「うん」
 海沿いは風が強いせいかやっぱり寒いねと言いながら、駐車場に停めてあるというヴィクトルの車に早足で戻る。
 そして車が走り出して公園から出たところで、そういえばよくこの公園にいるって分かったねとたずねた。
「正直なところ、最初はさっぱり分からなかったよ。ただ以前この場所に来た時、長谷津の海に似てるって言っていたなってふと思い出して。駄目元で来てみたら、見つけたって感じかな」
「そうだったんだ」
 そこでポケットに入れていたスマートフォンが、断続的にブルブルと震えだしたのでどうしたのかと思ったら。通知画面に大量のヴィクトルの名前が表示されていたのに、やっぱり連絡をくれていたのかとホッと胸を撫で下ろした。
「誰かから連絡来た?」
「あ、いや。ヴィクトルからの不在着信とメッセージが大量にきてて」
「ああ、そうそう。そういえば勇利に連絡しても全く出なかったんだ。電源切ってたの?」
「いや、切ってなかったはずなんだけど……」
 洋服が変わっている件と、ヴィクトルも同じ記憶を共有しているのに加え、さらにこれだ。不思議なことの連続に、なんだか未だに夢の中にいるかのようなふわふわとした気分に包まれる。
 しかしそこではたと、スマートフォンとヴィクトルの横顔を交互に見つめる。それから自分からヴィクトルへ一切連絡を入れていないことに気付くと、冷や汗をダラダラと垂らしながら心配をかけてごめんと何度も頭を下げた。



 そんなこんなで自宅へ到着すると、ヴィクトルはこの後の仕事の用意をしなければと慌ただしく荷物をまとめ始める。
 それにそうだったと思いつつ、邪魔にならない範囲で手伝って。かれこれ三十分ほどで準備を終えると、彼は再び玄関に立った。
「それじゃあ、帰ってきてすぐで悪いんだけど、仕事に行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい。あ、あとこれ、良ければ」
 そこでポケットから手の平サイズほどの、綺麗にラッピングされた箱を取り出す。そして誕生日おめでとうと言いながら差し出すと、ヴィクトルは目を見開いて驚いている様子だ。
 しかしすぐに相好を崩し、開けてみても良いかとたずねてきたのにこくこくと頷いた。
「これは、ネクタイピンかな」
「あ、うん。えと、少し前に使ってるやつが壊れたって言ってたなと思って、それにしたんだけど」
 ヴィクトルは箱の中から取り出すと、興味深げにしげしげと眺めている。
 そして早速付けてくれると、嬉しそうな表情を浮かべながら玄関に設置されている姿見を見ていたのに安堵した。
 ちなみにせっかくだしと指輪と同じ金にしたため、少し派手すぎただろうかと心配していたのだが。
 そこはさすがヴィクトルと言うべきか。まるでその金色に引けを取っておらず、ほどよく彼の華やかな容姿を引き立てているようで嬉しい。
「ありがとう、嬉しいよ。実はまだ時間が無くて新しいものを買えていなかったから」
「えへへ、良かった」
 それからどちらともなく顔を近付け、久しぶりに想いの通じ合ったキスをする。
 そしてヴィクトルの舌が不意に口内に侵入してきて、その熱の感覚をしばらくは堪能していたのだが。
 不意に口蓋をねっとりと舐め上げられたのをきっかけに、下腹部がドクリと疼いて。それから背中をゾクゾクとしたものが這い上ってくる。
 その感覚にうっかりと腰を抜かしてしまい、ズルズルとその場に座り込んでしまった。
「はっ……ぁ、ぅぅ」
「――っと、大丈夫? ここまでするつもりは無かったんだけど」
 つまりは自分が感じすぎてしまったという事実に、耳まで真っ赤に染め上げる。
 それが恥ずかしくてたまらないのに顔を俯けていると、指先で顎下をすりすりと撫でられて。うっかりとそれに絆されて顔を上げると、頬に軽く口付けられた。
「ああ、これから仕事なんて信じられないよ。
 とりあえず出来る限り前倒しで仕事を済ませて、年明け前の三十一日までには必ず帰ってくるから。寂しい思いをさせてごめんね」
 ヴィクトルはリップ音を響かせながら再び唇に口付け、それから立ち上がる。そして名残惜しげに何度も振り返りながら出かけていった。
 正直なところ、寂しくないと言ったら嘘になる。でも以前のような、自分でもどうしようもないほどの悲しい感情は無い。
 むしろ次にヴィクトルが帰ってくる時のことを想いながら、口元を緩ませる。そして床の上にぺたりと座り込んだ格好のまま、しばし夢想にひたるのであった。

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