アイル

子豚ちゃんと氷上のプリンス-1

 三月が終わると、フィギュアスケートの主だった大会は全て終わる。いわゆるシーズンオフというやつだ。
 しかしそれと入れ替わりに、四月から本格的なアイスショーのシーズンが開始する。そして本人にその自覚は無かったが、日本を代表する選手の一人である勇利は、それらのショーのいくつかに参加して欲しいと声をかけられていた。
 もちろん声を掛けられた当初は、その後の惨状など知る由も無い。したがってコーチであるチェレスティーノと相談をし、大阪と東京の二か所で数日間に渡って開催される大きなアイスショーに参加することにしたのだが。
 それからグランプリファイナルと全日本に出場し―その結果は、皆が知る通り散々なものであった。
 そうして今後の身の振り方について考えねばならない状況まで追いつめられたことで、アイスショーに参加している場合ではないと弱気なことを考え始めるのは、まあ当然の成り行きだろう。それにその時には、チェレスティーノとのコーチ契約も切れてしまっていたので相談出来る相手もいない。
 というわけで、一日のほとんどを実家の自室に引きこもってたくさん考えて。
 結果、アイスショーを辞退することにした。
「今更、大丈夫かなあ……」
 もう公演までほとんど時間が無いので、本当にギリギリのタイミングだ。
 許可されるかどうかは分からないし、主催者側にはとんでもなく迷惑がかかるだろう。でももう、正直一杯一杯でそこまで気を回すことも出来ないというのが正直なところである。
 でもまあ、とりあえず駄目元で一度連絡して聞くだけ聞いてみようと、ベッドの上に寝転がりながら、脇に放り投げていたスマートフォンを取り上げた時のことだ。そこでタイミング良くメールの受信音が鳴り響いた。
「―あれ? これって……アイスショーの追加情報か」
 辞退しようと考えていたのもあって、どこか他人事だ。
 ただ念のため確認しておくかとメールを開いて本文に目を通してみると、まさかのまさか。新たに参加決定したというキャスト一覧の中に、あのヴィクトルの名前があったのに目を見開いた。
「えっ、ヴィクトルっ!?」
 驚いた、なんてものではない。スマートフォンを両手で握りしめながら、思わずベッドの上に起き上がってしまう。
 そして繰り返し彼の名前が書いてある一文を指先でなぞりながら、嘘だろと小さく呟いた。
 彼はそろそろ引退するのではないかという噂が出てきてはいるが、未だ現役のロシア選手であることに変わりない。したがってアイスショーのためだけに、日本までわざわざやって来ることはほとんど無いのだ。ということは、今回のショーは超レアなものということになる。
 したがって未だそれが信じられなくて。咄嗟に公式サイトをブラウザで開いて出演者をチェックしてみたが、ホームページ上にはまだそれらしき記載は無い。
 ということは、ギリギリまで交渉を粘ったのか、あるいはわざとか。定かではないが、ともかくこうして連絡が来たということは、恐らく近日中に情報が出るだろう。
「そうか……ヴィクトルが出るのか」
 それだけでミーハー心がひょこりと顔を覗かせると、先ほどまでの葛藤はどこへやらだ。
 ほとんど脊髄反射のような勢いで、やっぱりアイスショーに参加しようと方向転換をするあたり自分でも現金なものだと思う。
「まあでも、この間のことを思い出すと……ちょっと。いや、だいぶへこむけど」
 六位に沈んだグランプリファイナルで、帰り際に記念写真を撮るかとヴィクトルに聞かれたのはなかなかのダメージだった。頭から冷や水をかけられたようにはっとして、年甲斐もなく人目がある場所で少しだけ泣きそうになった。
 やっとの思いで掴んだ切符、そして本気で望んだ大会だったのに。それを記念と言われたのだから、それもそうだろう。
「同じ舞台に、やっと立てたと思ったのにな」
 ほんの少しだけ、憧れの人に近付くことが出来たと思っていた。
 でも実際にはそんなのただの思い上がりで、同じ土俵に立ててすらいなかったのだ。
 ―でもそれを知ってもなお、彼のことが好きなのだ。 
 ふと自室の壁に貼ってあるポスターに目を向けると、ヴィクトルが余裕のある笑みを浮かべながら勇利のことを見つめているのが目に入る。その威風堂々とした様子は、まさに氷上の王者である。
 それに反して自分は、こうして一日中部屋の中に引きこもってうだうだとしていて、なんと惨めなことか。
 そのくせ、懲りずにまた彼と同じ氷上に立とうとしている己の図々しさに、思わず乾いた笑いがこぼれる。
 でもこのチャンスを、どうしても逃したくなかった。
 そしてヴィクトルのあの美しいスケーティングを、目の前で見て、感じたかった。

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