アイル

子豚ちゃんと氷上のプリンス-2

 そうこうしている間に季節は巡って四月になり、勇利は件のアイスショーに参加するため大阪までやって来ていた。
 利用する宿泊施設は、毎度のごとくリンク近くにあるホテルだ。
 これまでにも大会やらショーやらで何度も利用しているので、迷うこと無くフロントで所定の手続きを済ませる。それから部屋に向かうためにエレベーターに足を向け、そこに見慣れた後ろ姿があったのに思わず足を止めた。
「あ。あれは―」
 普段着、かつサングラスをかけているので、周りの人たちはそれが誰であるか気付いていない様子だ。それでも自然と滲み出ている華やかなオーラはまるで隠しきれておらず、周囲の人たちの視線を独り占めにしているあたりさすがと言うべきか。
 そしてその男の正体は、フィギュアスケート界のリビングレジェンド。ヴィクトルで間違い無かった。
 ちなみに勇利が今回のアイスショーを辞退しようか迷っていた直後から色々なことが一度に起こり、その結果、現在ヴィクトルは勇利の専属コーチとなって九州の実家に居座っている状態だ。
 ただほんの少し前まで引退という言葉が脳裏にチラついていただけに、今の状況が未だにどこか信じられないのは想像に難くないだろう。
 しかもその件で連盟の人に今回のアイスショーの前に一連の経緯を聞きたいと呼び出されてしまう始末である。
 そんなこんなで。ホテルの最寄り駅からここまで、勇利とヴィクトルは完全に別行動を取っていたのだ。
「ヴィクトルと駅で別れてから二時間くらい経ったと思うんだけど……まだこんなところにいるってことは、一人で大阪観光でもしてたのかな」
 そしてそんな独り言を呟きながら、相変わらすただ立っているだけでも絵になるヴィクトルの後ろ姿をぼんやりと眺めていた時のことだ。
 背中をいきなりバンと叩かれたのにひゃあと間抜けな声を上げてしまう。それから勢いよく後ろを振り返ると、そこにかつてのリンクメイト、かつルームメイトであるピチットが片手を上げながら立っていた。
「久しぶり、勇利!」
「あ、ああ……いきなり誰かと思ったらピチットくんか。久しぶり。今来たの?」
「そう、ちょうど今到着したところ。で、これから部屋に向かうところ。ところでこんな場所でボーッとしてどうしたの?」
「あ、ああ。そこにヴィクトルがいたから、つい」
「ははっ! そういうことかあ」
 ピチットは、勇利の病的なまでのヴィクトルオタクっぷりを知っている。したがって相変わらずだねと口にしながら、軽い笑い声を上げた。
「そういえばヴィクトルの方から勇利のコーチを申し出たって聞いたけど、どういう経緯でそんなことになったのか良ければ教えてよ」
「あー……知り合いの子どもにフィギュアスケート好きな三姉妹がいて、その子たちに動画をアップされちゃったんだ。それを偶然ヴィクトルが見たのがきっかけらしいんだけど……ただ何を思ってコーチを申し出てくれたのか、その真意は未だによく分からなくて」
「ああ、やっぱりあの動画がきっかけだったんだ! いやあ、勇利ってSNSとかあんまりするタイプじゃないじゃないでしょ? だから最初あの動画を見たとき驚いて。でもスケーティングに気持ちがすごくこもってて、気付いた時には魅入ってたんだよなあ……。僕でもそんな感じだったし、当事者のヴィクトルは余計に何かしら搔き立てられるものがあってコーチを申し出たとか?」
「いやあ……それはどうかなあ。冷静に考えてみると、現役の選手なのに他の人のプログラムを滑って、しかもネットにアップしてるなんて何してるんだって感じだし。だから単純に、息抜きかなー……なんて」
 まだ一応四月だしと肩を竦めると、ピチットはあまり納得していないのか。そうかなあと口にしながら小さく首を傾げている。
 ただいくら考えたところで正解は分からないので、やがて諦めたのか。とりあえず良かったねと脇を小突いてきた。
「勇利のヴィクトル好きは筋金入りだもんね。まあともかく、お互い次に向けてがんばろ! ―と、その前に今回のアイスショーだけど」
 明日の練習は何時からだっけと話しながら、勇利は再びエレベーターホールにチラリと視線を向ける。しかしそこにヴィクトルの姿はもう無い。
 先の大会の後、ヴィクトルとの間に果てしなく遠い道のりを感じた。あれから動画をきっかけに興味を持たれて。
 ほんの少しだけ近付けたような気がしたけれど、それでもその距離はまだまだ遠かった。

戻る