アイル

子豚ちゃんと氷上のプリンス-3

 翌日の朝十時。ショー出演者がリンクに集まり、男性の振付師の指導の元、オープニングやエンディングなどの全体練習を行う。そして間に昼休憩を挟み、その日の練習が終わったのは夕方頃のことだった。
 これが大会前だったらそのまま居残って練習をしている人も多いのだが、今回はショーなのでそんな物好きはいない。
 もちろん勇利もその一人で、お腹すいたなあなんてことを考えながらリンクサイドに向かって滑っていると、振付師にちょっと待ってくれと声をかけられたのに足を止めた。
「悪いんだけど、ヴィクトルと勇利はもう少しここに残ってくれるかな。実は今回のアイスショーで、二人にペア演技をやってもらうことになったんだ」
「へっ?」
 まさかの展開に思わず間抜けな顔を晒してしまったが、それも仕方がないというものだろう。だってあのヴィクトルとのペアである。ちょっと意味がよく分からない。
「ええと……ヴィクトルも僕も、男なのですが」
「言いたいことは分かるよ。でもまあ、こういったショーで人気のある選手同士でペア演技するのはよくあることだし。それに何より、この手の出し物はかなり盛り上がるからね。というわけで、ヴィクトルもそういう心づもりで頼むよ」
「オーケー、俺の方はまったく問題無いよ」
「え」
 思いの外すんなりと了承しているのに少し離れた所に立っていたヴィクトルの顔を見つめると、彼はよろしくというように器用に片目をつぶってみせる。そしてそのウインクを真正面から見事に食らってしまった勇利は、毎度のごとく大げさなほどに身体を揺らした後に顔を真っ赤に染め上げ、慌てて視線を元の正面位置に戻した。
 勇利にとって、ヴィクトルは小さい頃からの憧れの選手だ。彼のプログラムを滑った動画がネット上に勝手にアップされたのをきっかけに互いの距離がグッと近付いたものの、それでもやっぱり根底にあるその思いに変わりはない。
 それだけに、まさか一緒にペア演技をすることになるとは……青天の霹靂だ。
 それはもちろんファン心理としては嬉しいの一言につきる。だがどう考えても、男性同士でペアを組んで喜ぶような物好きな男はまずいないだろう。
 そんな彼の胸の内を思うと、ただただ申し訳なくて。情けない表情を浮かべながら、深い深いため息を吐いた。
 ヴィクトルは、外国選手に関わらず日本でトップの人気を有する選手である。そんな彼が勇利に興味を持ってコーチを申し出たというのは、今や周知の事実だ。
 だからそんな二人にペアを組ませることで、話題性を作ろうと発案された企画なのだろう―というのは、ちょっと考えてみるとすぐに分かることだ。
 実に単純明快でわかりやすいとは思うが、勇利的には色々と複雑なことこの上ない。
(男同士じゃなくて、男女の人気選手同士でサプライズペアを組めば良いのに……しかも今回のショーって、テレビでも放映されるんじゃなかったっけ)
 例の動画のせいで、世間には自分が彼のファンであることが知られているだけに非常に気まずいというか、恥ずかしいというか。
 それとこのことをユリオに知られたら、ほぼ間違いなく何かしら言われるだろう。
 ただ今回彼はこのショーに参加しておらず、長谷津の実家に留守番しているのがせめてもの救いというべきか。
「じゃあ、とりあえず振り付けの見本を見せるから」
 そしてそこで、まるで諦めろというように振付師の声が勇利の思考に割って入ってきて。それに対して慌てて頷きながら、邪魔にならないようにリンクサイドまで退く。
 つまりこれはもう決定事項であって、いくらぐだぐだと頭の中で文句を言ったって仕方がないことなのだ。
 そこで観念したように小さく一つ頷くと、目の前の振付師の演技を覚えるのに集中する。
 観客の人たちに楽しんでもらえるように、そしてヴィクトルの足を引っ張らないように。勇利が出来るのは、精一杯演技をすることだけだ。

 ―と、思っていたのも束の間のことである。

「ねえ勇利、もっと俺に身体を委ねて」
「ぎゃあっ!?」
 アイスショー練習日程のちょうど中日。
 全体練習を終えたところで、ヴィクトルと勇利の二人はリンクに居残ってペアのプログラムの練習を開始する。そしてヴィクトルに抱え込まれるような格好になりながらペアスピンをしていた時のことだ。
 唐突に尻から腰にかけてを撫でられ、さらに耳元で囁くように呟かれたのに、勇利は情けない声を上げながら氷上に無様に尻餅を付いた。
 二人とも所詮はシングルの選手。加えて練習時間も少ししか無いので、ペアのプログラムを滑ると言っても、曲に合わせてサイドバイサイドで簡単なスピンをしたり、ジャンプを跳んだりとかその程度のことだ。
 だから何度か滑ったところで、すぐにそれらしい形になりはした。
 しかし演技終盤の二人でペアスピンをするところだけは別だ。
 ペアスピンはヴィクトルに身体をホールドされた状態で二人が一体となる必要があるので、必然的に互いの身体がとても密着する体勢になる。したがってどうしてもへっぴり腰になってしまうのに、この日勇利はヴィクトルから何度も何度も駄目出しを食らっていた。
「腰が引けているよ。それじゃあ見栄えが良くないし、今よりスピードを上げたらばらばらになっちゃうじゃないか。もっと俺の方に身体を寄せて」
「うう……分かってはいるんですけど」
 演技中のヴィクトルは、独特の色気を醸し出す。それを間近でくらい、なおかつ抱え込まれる格好になると、その破壊力は男の勇利であってもすさまじいものがあるのだ。
 そこでついに音を上げてリンクサイドで練習風景を眺めていた振付師に助けを求めるが、頑張れというように手を振られるだけである。
 しかもその横では、元リンクメイトのピチットが面白そうに口元に笑みを浮かべながらスマートフォンを掲げていて。それに気付いた勇利は途端にげんなりとした気分になると、小さく息を吐きながら肩を落とした。
 面白がられているのは、ほぼ間違いないだろう。
「ピチットくん……頼むから、それ絶対ネットに上げないで」
「撮ってるの、写真じゃなくて動画だから。フルで上げるには、さすがに容量大きすぎて無理だから安心して」
「一応言っておくけど、一部分だけでもアップするの駄目だからねっ!?」
「―ほら勇利、意識散漫だよ。ピチットじゃなくて俺を見て」
「ぐえっ」
 ピチットはSNS大好き人間として界隈では超有名だ。それを思い出して咄嗟に余計な真似はしないようにと釘を刺していると、横から伸びてきた手に顎を掴まれ、無理矢理正面を向かされたせいで間抜けな声を上げてしまう。
 そして恐らくはその声が聞こえたのだろう。リンクサイドからピチットの笑い声が聞こえてきてますます面白くない。
 まったく他人事だと思って、いい気なものだ。
 それに渋い顔をしていると、練習に集中しろというように頬にかかっていた指先で柔らかな頬肉をぶにぶにと揉まれた。
「要は、勇利は恥ずかしがっているんだよね?」
「―うっ。まあ……はい」
 何も話していないのに、なにもかもが筒抜けである。男同士で何を恥ずかしがっているのだと思われていそうで情けないったらない。
 しかし意外にも彼はそんなことをまるで気にしていない様子で、それなら良い解決方法があるんだけどと目を細めながら人差し指を立てる。そしてさらに顔を近づけてくると、足を一歩踏み出して身体を寄せてきた。
「それなら単純に、もっと恥ずかしいことを経験すればいいんじゃないかな」
「―っ!?」
 今の体勢は、分かりやすく表現するとキスの一歩手前である。そして彼の纏う雰囲気も先ほどとは一転、妙に色っぽくて―そう、まるで女性に迫っているかのようだといえば、分かりやすいだろうか。
 おかげで別にそういう趣味は無いものの、思わずその場の甘い雰囲気にのまれて顔が赤くなってしまう。
 しかしすぐに正気に戻ると、挙動不審に目線を彷徨わせながら彼の胸元を軽く押した。
「また、そうやってからかわないでくださいよ。僕、こういうの慣れてないって言ってるじゃないですか」
「あはは! 勇利は初心だなあ」
「はあ……」
 ヴィクトルという人は、外国人のせいか初対面の時から何かと距離感が近い。
 そして勇利は元々彼に憧れていたというのも相まって、それに対していちいち大げさな反応を返していたのだが、それが不味かったのか。最近ではこうしてわざとからかってくるのに、少しばかり困っていたりする。
 だが今回は途中でそれに気付いて勘弁してくれと口にすると、ヴィクトルの纏う雰囲気がガラリと変わり、軽いものになったのに勇利は思わず額に手を添えた。
 ―やっぱりだ。
 しかも追い打ちをかけるように、ピチットがリンクサイドからヒューヒューとひやかすような声を上げているのである。
「ピチットくん、あのねえ……」
「よし。じゃあその調子で、もう一回最初から通してみよう」
「へあっ?」
 手首を捕まえられると、再びリンク中央まで半ば無理矢理に連れて行かれる。そして訳の分からないままきょろきょろと辺りを見渡していると、いきなり曲をかけられて慌てたなんてものではない。
 しかし身体の方は、ヴィクトルのなめらかな滑りと艶やかな演技に引っ張られるように勝手に動くから不思議なものだ。
 それならと少しばかりヤケになって大胆に彼に身体を寄せるようにして滑ってみると、その調子だと振付師から声をかけられる。
 それから夢中になって滑っていたせいだろうか。あっという間に曲が終わったのに放心状態でいると、目の前には笑顔のヴィクトルが立っていて。よく出来ましたというように頭に手を乗せられた。
「そうそう、やれば出来るじゃないか」
「あ……ありがとう、ございます」
 完全に子ども扱いされているような気がしなくもないが。それでも憧れの人に、こうして誉められると単純に嬉しい。
 そしてそうやって一度調子に乗ると、それまでの羞恥心はどこへやら。勇利は驚くほどすんなりとペアの演技をマスターしたのであった。

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