アイル

子豚ちゃんと氷上のプリンス-4

「アイスショーの大阪公演、ひとまずお疲れさまでした。乾杯!」
「乾杯!」
 フィギュアスケートは、大きな試合の後にホテルなどでバンケットと呼ばれるパーティーが行われる。パーティーと言うからには、ドレスコードも決まったきっちりとしたものだ。
 しかし今回はアイスショーで、なおかつこの数日後には東京での公演も控えているので、ホテルの中華レストランの一角で関係者のみの軽い打ち上げを行うだけである。
 そして主催者側のかけ声に合わせてそれぞれ手に持っていたグラスを掲げると、皆思い思いに食事をしながら近くに座っている者達と談笑をはじめた。

「勇利くんのペア演技、すごう大盛り上がりでしたね!」
「えーっと……たしか南くん、だっけ。うん……まあ盛り上がってくれたのは光栄だとは思うけど」
 ヴィクトルは数々の大会で一位を総舐めにしてきた人だ。片や勇利はというと、先のシーズン後半で最下位争いをしていたのである。そんな二人がペアで演技するとなると、どうなるかは火を見るよりも明らかだろう。
 勇利が趣味でヴィクトルの演技を真似して滑っていたとはいえ、所詮は猿真似。加えてひどく緊張していたのもあいまり、いざ並んで同じ演技をしてみると、技の出来映え、スケーティング技術、何もかもがレベル違いで少しばかりへこんだ。
 ―いや、そんなの知っていたことではあるが。
 しかも彼は、練習の途中でもう少しペアらしい演技を取り入れたいなあと言い出し、最終的にはスロウジャンプまでやる羽目に陥ったのだ。
 もちろん一回転だが、それでも同じ男として少しばかり複雑である。まあ、リフトをやらされなかっただけ、良かったのだろうか。
「あれ? どこか納得いかない所とかあったとですか?」
「そういう訳じゃないんだけど。今になってよくよく考えてみると、事前打ち合わせとか何もしていないのに、僕の方がいつの間にか女性ポジションになってたなと思って」
「そうだったんですか?」
「うん。いや、もちろん僕の方が小さいし、そうなるのは当然のことなんだけど。ただ……こう、ネットの反応を見ると、色々と考えさせられるというか」
 そこでとあるニュースサイトのページをスマートフォンで表示し、隣の席に座っている南にほらと見せてやる。ちなみにそこには『勝生勇利、ヴィクトルとのペアで妖艶に女性役を演じる!』という見出しが太文字で踊っていた。
 こういった表現の方が人目を惹くからだろうなというのは分かるのだが。いくらなんでも、男相手にこれはないだろうと思うわけだ。
 ショーで男同士ペアを組むことはたまにあることだし、ここまで大々的に取り上げなくても良いのに。というかきちんとシングルのプログラムも滑ったのに、ペアの方が大きな話題になるとはこれいかに。
 まあ、十中八九ヴィクトルの知名度のせいだろうが。
「あー…………で、でも! おいと勇利くんが組んだら、おいの方が女性役になりますよ! ぜったい、間違いなかです!」
「なんか、ごめん。気を使わせちゃったね……ありがとう」
 六歳も年下の少年に、同情するような眼差しを向けられて非常に辛い。
 それを誤魔化すように、円形テーブルの中央に置かれていた数々の料理の大皿からエビにマヨネーズを和えた物を取り分ける。そして無心でそれを口に放り込んでいると、南が小さな声を上げた。
「あ」
「ん?」
 どうしたのだろうと南の方に顔を向けると、彼は勇利の背後に目線を向けていて。次の瞬間、勇利が手に持っていた皿が中空に浮いた。
「勇利、食べ過ぎだよ」
「ああっ、僕のエビマヨ!」
「目を離すと、すぐこういう高カロリーそうなものを選ぶんだから。それならこっちの方がまだカロリー低いよ。あと、バランス良く野菜もとるように」
「そんなぁ」
 背後に立っていたのは、まさかのヴィクトルである。しかも彼は勇利が右手に持っていた箸も取り上げると、まだ数個残っていたエビマヨをペロリと平らげて。代わりにエビチリと野菜関係の食材を盛りつけ、こちらにしろというように勇利に皿を手渡してきたのに思わず情けない声を上げた。
「エビマヨが……エビチリに……」
「同じエビだよ。それより、勇利はまた子豚ちゃんって呼ばれたいのかな?」
 ん? と首を傾げながら、まだ微妙に腹周りに残っている腹の肉を指先で軽く摘まれると心が痛い。
 そんなの分かっている。この肉のせいで、ジャンプだって微妙に重いし動きも鈍い。
(でも……でも! 今日はせっかくの打ち上げなのに!)
 というわけでテーブルの上に両手を付いて打ちひしがれていると、南にエビチリも美味しいですよと必死に慰められた。
 またもや年下にフォローされるとは。もう泣くしかない。
 しかもヴィクトルは何を考えているのか、勇利の隣の空席に腰掛けるのだ。
 大体こういう席では、国が同じ、あるいは近い者同士で固まる。というわけで勇利のいるテーブルには、日本人が中心に腰掛けている。そしてヴィクトルの方は、他のヨーロッパ選手らと一緒にいたはずなのだが。
「ま、まさか……僕の食事管理をするつもりじゃ」
「もちろん」
「ひっ!?」
「―っていうのは半分冗談。せっかくだから、記念に写真を撮ろうかなと思って」
「……」
 そこで格好良くウインクを決められ、心臓を打ち抜かれる。
 しかし半分は冗談と言っていたということは、もう半分は本気なのだろう。ということは、これから先は好きなものを食べられないというわけで。
 それに彼が隣に座っていると、周りからの視線をチクチクと感じて正直居心地が悪い。
 したがって早くこの場から逃げ出したいのにうろうろと目線を泳がせていると、ヴィクトルはポケットからスマートフォンを取り出して南に手渡す。そしてそうこうしている間にグイと肩を引き寄せられ、直後に目の前でピカリとフラッシュが光った。
「わっ」
 ハレーションのようにフラッシュの光が目の奥でチカチカと明滅している。思えばこういった華やかな場所で、ヴィクトルとツーショットの写真を撮るのは初めてだ。
 少し前から考えると、夢のような状況なのに。何もかもが初めてのことだらけで、この時の勇利は緊張から死んだ魚のような目をしていた。

 そしてそれから。しばらくして勇利はトイレに行くと適当な理由を口にして打ち上げ会場から抜け出し、ホテルの廊下をあてもなくてくてくと歩いていた。
「はー……あの人、まさか最後まであの席に居座るつもりじゃないだろうな……」
 勇利の隣の席にちゃっかりと座ったヴィクトルは、先の宣言通り。勇利が大皿から料理を取り分けようとする度に鋭くチェックを入れてきていた。
 でもそれは、それだけ彼が自分のことを気にかけてくれているということでもあるので、素直に有り難く思っている。
 とはいえもともと食に関しては貪欲な方なので、思うところは無きにしもあらずだが。
 そしてそうこうしている間に、ヴィクトルの周りには沢山の人が集まってきて。色々な人に写真撮影を頼まれ、すぐに勇利の存在なんて蚊帳の外である。
 今彼の周りには、ちょっとした人垣が出来ていることだろう。
「相変わらず、すごい人気だよなあ」
 ああいった席で、ヴィクトルは常に人の輪の中心にいる。
 表彰台は常に真ん中。雑誌の表紙を何度も飾り、国内だけでなく、国外のテレビ局でも彼の特集は何本も組まれているほどだ。だからそんなのごくごく当たり前のことで、彼のことを遠巻きに見ていた時からずっとずっと目にしてきた光景である。
(そのはず……なんだけど)
 でもこうしてその風景を改めて目の当たりにすると、少しばかり複雑というか。自分でもよくわからないが、胸の中にもやもやとした感情が生まれたのだ。
 そしてそれは何だろうと考えて。すぐに独占欲だと気付くと、そんな感情を抱いている自分自身が嫌になり、こっそりと会場を抜け出してここまで逃げてきたというわけだ。
「馬鹿だよなあ」
 ちょっと彼に構われただけですぐにこれだから困る。
 彼の見ている世界は、自分が見ているものとはきっと違う。たくさんの面白そうなものや楽しそうなことが、次から次へと目の前で繰り広げられ、耳に入ってきているに違いない。
 つまり彼の興味は、いつ自分から他に移ってもおかしくない状況なのだ。
 だから自意識過剰になってはいけないし、依存しすぎてもいけない。そうしないと、後で手痛いしっぺ返しを食らうのは自分なのだから。
 そう何度も自分に言い聞かせていると、突然背後から声をかけられたのに少しばかり身体をびくつかせながら後ろを振り返った。
「勝生さん、少し良いですか?」
「あっ、はい」
 振り返ると、そこには見覚えのある日本人の女の子がいた。
 勇利の口調が常よりも若干早口なのは、直前に微妙な問題について考えていたのと、珍しく女性から声をかけられたからだ。それを誤魔化すように軽く咳払いをしながら、頭をフル回転させて彼女のプロフィールを脳内から掘り出した。
 勇利は数年前から拠点をデトロイトに移したので、生憎と目の前の女の子とそれほど面識がある訳ではない。
 ただ彼女はこの間シニアの大会に初めて参加し、その大会で表彰台に上って一躍有名人になったので一方的によく知っている。最近になって、めきめきと力を付けてきている十代の選手の一人だ。
(それに比べて僕ときたら……ビリだもんな)
 情けないことこの上ない。
 しかし話している最中に勝手にへこまれても相手も困るだろうと、慌ててマイナスに傾きかけた思考を振り払う。そして何か用ですかと口にしながら首を傾げてみせた。
「いきなりすみません。実はお願いしたいことがあるんですけど……」
「はあ、僕で出来ることなら」
「あの……ヴィクトル選手に、これを渡していただけないでしょうか!!」
「へ?」
 ガバッと音がしそうな勢いで頭を下げられると、目の前にピンク色の可愛らしい封筒を差し出されたのに目をぱちくりさせてしまう。それを反射的に受け取りつつ、そこでようやくその意味を理解するとカーッと顔を赤く染めた。
「こ、これは……」
 もしや、都市伝説だとばかり思っていた、ラブレターというやつではないだろうか。
 勇利自身には関係無い話だというのは重々承知している。ただ生まれて初めての経験だったのもあり、全く関係の無い自分までドキドキとしているのは許して欲しい。
 そこで思わず勢いよく顔を上げると、彼女は恥じらった様子でもじもじとしていて、先の勇利の予想が正しいことを物語っていた。
 ―なるほど。ヴィクトルという男、なかなかに罪作りである。こんな一回り近く年齢が下の選手にまでもてるとは、犯罪だ。
 いや、正直ちょっと羨ましい。
「あの、こんなことをお願いするなんて図々しいとは思うんですけど……どうしても恥ずかしくて。これを彼に渡すの、お願いしても良いですか?」
「うん、分かったよ」
 そう頷くと、途端に花が開くように笑って可愛らしい。
 あのヴィクトルのことだから、きっと邪険なことはしないだろう。それだけにその笑顔を目にすると、自分なんかに頼まずに直接渡せば良いのにと、少しだけもったいないなあと思う。
 でも彼女も勇気を出して頼みに来たのだろうから、それを断るのも忍びない。したがって今日中に必ず渡しておくからと約束すると、彼女は何度も頭を下げながら打ち上げ会場の方角へ小走りで駆けていった。
「―さて。となると、一回会場に戻らないとか」
 腕時計を確認すると、そろそろお開きの時間だ。しかしどうせ彼のことだから、最後まで残っているに違いない。
「……あれ? でもこういった手紙って、やっぱり人前で渡すのは不味いのかなあ」
 先ほども言ったが、残念ながら勇利自身はこういった物を渡された経験は一度も無い。だから漫画とかドラマとかで得た知識が元になってしまうが、やはりラブレターを渡す定番は校舎裏というイメージがある。つまりは、人目を忍んだ場所だ。
「となると……ヴィクトルが部屋に戻ってから渡すのがベストか」
 だからあの女の子もわざわざ勇利に頼んだのだろうかと考えつつ、再び打ち上げ会場となっているレストランに足を踏み入れる。
 しかし意外にもそこに彼の姿が無かったのに、目を瞬かせた。
「南くん、ヴィクトル知らない?」
「あれ? 勇利くんの帰りが遅かって、少し前に探しに行ったとですけど。途中で会いませんでしたか?」
「あ、そうだったんだ」
 じゃあ入れ違っちゃったのかなあと呟きつつ、踵を返す。
 それから近くの男子トイレを覗いてみたものの、そこに彼の姿は無い。それならと駄目元でホテル上階に向かい、彼の居室のドアをノックしてみる。すると中から目的の人物の声がし、すぐに扉が開かれた。

「ああ、勇利か。気付いたら姿が見えないし、探しても見つからなかったから部屋に先に戻らせてもらったよ」
「すみません。ちょっと息抜きにホテルの中をうろうろしていて」
「そう。まさか別テーブルに移動して盗み食いしてるんじゃないかって、少し心配してた」
「さすがにそこまで食い意地張ってないですから」
 冗談だというのは分かっているが、少しばかりジト目になってしまったのは許して欲しい。この人の中で、自分はどれだけ食に貪欲な人間だと思われているのやらだ。
 とはいえ己の腹まわりを見ると……否定は出来ないのが辛いところである。
 そしてそんな一連の勇利の様子を見ていたのだろう。ヴィクトルはクスクスと小さく笑い声を漏らしはじめ、不本意なことこの上ない。
「はあ……。それより、渡す物があって来たんですけど」
「渡す物? そうだな……じゃあ立ち話もなんだし、中に入って」
「あ、はい。それじゃあ失礼します」
 勇利の実家にいる時はともかく、こうした場所で彼のプライベートな空間に足を踏み入れるのは初めての展開だ。
 したがってすっかりと毒気を抜かれてしまうと、それまでの少しばかり不貞腐れた態度はどこへやら。勇利は借りてきた猫のようにすっかりとおとなしくなり、おずおずと扉をくぐって部屋の中へ足を踏み入れる。
 そこにいたのは、ただのミーハーなヴィクトルファンの男であった。

「―僕と同じ部屋だ」
「同じホテルだからね。さ、ドアの前にいつまでも突っ立ってないで窓の前のイスに座って」
 行儀悪く口をぽかんと開けていると、促すように背中をポンと押されたので慌てて部屋の奥へ歩を進める。そして言われた通り、窓の前に設置されていた応接イスの一つに腰掛けた。
 それからヴィクトルは勇利が座ったのを確認すると、入口近くに設置されている棚に向かいながらなにやらゴソゴソとしている。つまりは勇利には背中を向けている格好だ。
 それをこれ幸いと、勇利はきょろきょろと辺りを見渡しながら部屋の中をじっくりと観察させてもらって。そして部屋の配置から家具の種類まで、自室と全く同じなのに妙な感動を覚えていた。
「はー……」
 なんだろう。よく分からないが、ともかく胸が一杯だ。
 ただ少しだけ違和感を覚えるのは、部屋の中に漂っている香りが自分の部屋と異なるせいだろうか。
(柑橘系と……あとは少しだけ甘い匂いがする)
 彼の使っている香水だろうか。一見すると爽やかな出で立ちなのに、どことなくミステリアスで色っぽい。実に彼らしい香りだ。
 そんな新たな発見に興奮してしまい、自分でも少し変態じみているなと思いつつ、深く息を吸い込んでしまう。
 なんて馬鹿なことをしながらヴィクトルの様子を横目で伺っていると、しばらくして彼は目の前に設置されているテーブルの上にカップを置く。そして彼自身も向かいのイスに腰掛けた。
「悪いね、ホテルに備え付けられているティーバッグの紅茶しかなくて」
「あ、いえ。むしろわざわざすみません。ありがとうございます」
 ヴィクトルが手ずからいれてくれた紅茶だ。文句なんてあるはずが無い。むしろあまりの有り難さに、飲まずに持ち帰って永久保存したいくらいの勢いだ。
 したがって思わずポケットからスマートフォンを取り出して写真を撮っていると、どうしたのと不思議そうな表情を浮かべながらたずねられる。それに対して愛想笑いをして誤魔化し、皺にならないようにとずっと手に持っていた例の手紙をテーブルの上に置いた。
「さっき言っていた渡したい物って、実はこれなんですけど」
「何を大事に持っているんだろうと思ってたら……勇利からのラブレター?」
「―ッ!? ち、違うに決まってるじゃないですか! 僕じゃないですよ!!」
「あはは。顔、真っ赤だ。心配しなくても分かっているって」
 ヴィクトルは腹を抱えて笑っている。最悪だ。
 こんな風に過剰に反応してしまうから、いつもいつも彼にからかわれるのだ。
 でもそれに気付いた以上、もうその手には乗らないぞと咳払いをして気持ちを落ち着ける。そしていいから早く受け取ってくださいと、テーブルの上の手紙を取り上げて押しつけた。
「はいはい、ちゃんと受け取るから。からかって悪かったよ。それで? これを俺に渡してくれって頼まれたの?」
「……そうです。この間シニアデビューした日本の女の子からで」
「へえ。ファンレターかな」
「いや、そうじゃなくて……その、たぶん、そういう手紙かと」
「ああ、ラブレター?」
 自分だったら、ラブレターを受け取った途端に挙動不審になること間違い無しだ。
 しかしさすがもてる男は違う。顔色一つ変えず、封筒の宛名を見ながらちゃんとキリル文字で書いてあるよと勇利に見せてくる。
(いや……というか、ちょっと待って)
 このヴィクトルのさっぱりとした反応から察するに、恐らく彼は手紙の送り主が誰だか全く分かっていない。
 まあ他国の女子選手だし仕方ないかなと思いつつ、その子の名前を告げてみる。しかし彼は興味無さげにふーんと鼻を鳴らすだけだ。
 そして封筒をひっくり返すと、早速といった様子で封を切って本文を読み始めたのに、思わず勢いよく声を上げた。
「―って! いやいや、僕のいないところで読んでくださいってば!」
「え?」
 ヴィクトルのきょとんとした表情が珍しい……ではない。そうではなくて、いくらなんでも人前でそういう物を読むのは、ちょっと、その、デリカシーに欠けると思うんですけどと早口でまくしたてる。
 結果はともかくとして、先ほどの女の子の一生懸命な様子を思い出したら、やっぱりちゃんと考えて欲しいと思うのは当然の心理だろう。
 というわけでイスから身を乗り出すと、彼が手に持っている手紙を取り上げる。そして用紙を綺麗に折り畳んで封筒の中に丁寧に仕舞い込みながら、ちゃんと返事をしてあげてくださいねと念を押した、
「はは! まいったなあ……でも、うん。勇利がそこまで言うなら、十代は対象じゃないからごめんって、明日にちゃんと本人に伝えるよ」
「っ、だから! そういうことは僕に言われても困るし、ていうか、言ったら駄目なんですってば!」
 一瞬、胸の中に安堵感が広がったのは、きっと気のせいに違いない。
 それを誤魔化すように、手に持っていた件の手紙を突き返す。視線を横にそらしているのはご愛敬だ。
 それを彼は笑いながら受け取りつつ、全く懲りていない様子で勇利って格好良いねと口にした。
「なんですか、それ」
 少しだけドキリとしてしまうが、よくよく考えてみて欲しい。今目の前にいるのは、ちょっと手を振るだけで女性陣がキャーキャーと叫び声を上げるあのヴィクトルだ。
 またからかっているのかと、小さく息を吐きながら顔を上げ―直後、目に飛び込んできた彼の姿に息を呑んだ。
 彼はイスの肘掛けに腕を乗せる格好で、目を細めながら勇利のことを見つめている。
 言葉にすると、ただそれだけのことなのに。そのオーラは圧倒的で、息をするのもままならない。
 当然自分から目をそらすことなど出来るはずもなく。身を乗り出した格好のまま口をパクパクとさせていると、彼も勇利と同じくテーブルの上に上体を乗り出してきた。
「念のために言っておくけど、からかっている訳じゃないからね。俺がもし女の子だったら、勇利のことが好きになっていたかもしれないなあと思って」
「―っ、ん!?」
 その次の瞬間のことだ。
 瞳のピントがずれたのか、それまではっきりと見えていたヴィクトルの姿がぼやける。それからリップ音が響くのとほぼ同時に、唇にふにりと柔らかな物が触れる感覚が走って。
 つまりはキスをされたのだとそこで気付くと、勇利は思考回路の動きを完全に停止させた。
「ねえ、思ったんだけど……もしかして、勇利ってキスとかあまりしたことが無い?」
「~~っ、余計なお世話です!」
 つまりはヴィクトルの予想は正しいと言ってしまった訳だが、今は何がどうなって彼とキスをすることになったのか。それを理解するので精一杯で、細かいことまで全く頭が回らない。
 というか、生まれて初めてのキスが男とは。トラウマになりかねない出来事だと思うのだが、こんな時に限ってファン心理が働いてしまい、ちょっと嬉しいような気がしているあたり重傷だろう。
 どう考えても男としての本能が機能停止しているとしか考えられない事態に、かなりのパニック状態だ。
「と、とととりあえず! 手紙は渡したので、僕は部屋に戻りますっ」
「もう? まだいいのに」
「大丈夫です!」
 何が大丈夫なのか、自分でも意味不明だ。
 それでも律儀に失礼しましたと頭を下げると、猛ダッシュで部屋の外に出る。おやすみという声が背後から聞こえたが、それに答える余裕なんてあるはずもない。
 それから無我夢中で数十歩ほど離れた場所にある自室に戻り、鍵を開けるのにかなり手間取りながらも何とか部屋の中に駆け込む。
 そして部屋の扉が閉まったところで気が抜けたのか。足から一気に力が抜けると、扉に背をついた格好でずるずると床に座り込んでしまった。
「そういえば……せっかく紅茶をいれてもらったのに、飲み損ねちゃったな……」
 勇利の力ない独り言は、誰もいない部屋の中にむなしく響いた。

 ちなみにその日の夜は、勇利にしては珍しく一睡もすることが出来なかった。
 自分の許容範囲外のことがあった日は、スマートフォンの電源を切って寝落ちるのが基本なのだが。それすら出来なかったということは、それだけヴィクトルとのキスが衝撃的だったということだ。
 しかし無情にも、皆に等しく朝日は上る。

「結局……一睡も出来なかった」
 翌朝。勇利は前夜に設定したスマートフォンのアラームが鳴る前に起きあがる。そして洗面所に向かうと、鏡に映った自身の充血した目を見ながら、ガックリと肩を落とした。
「これ、寝不足ってバレバレだよなあ」
 何とかならないかと冷水で目元を冷やしてみるが、鬱々としていた気分が多少晴れただけだ。
 そこで完全に諦めると、再び居室に戻る。それからスマートフォンを取り上げると、無意識にヴィクトルのSNSを開いて。
 ページが表示された瞬間、打ち上げの席で撮影した自分とヴィクトルのツーショット写真がいきなり表示されたのに驚くと、思わず床の上に端末を落としてしまった。
「うう……心臓に悪い」
 無論写真一つでそんな調子なので、ヴィクトルと直接顔を合わせられるはずもないだろう。したがってその日一日、勇利は極力ヴィクトルに会わないようにと部屋に引きこもっていた。
 とりあえず、キスをされたのが大阪での公演が全て終わったタイミングだったのは、不幸中の幸いであった。

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