アイル

子豚ちゃんと氷上のプリンス-5

 大阪公演から東京公演の間、出演者に与えられたオフ日は一日しかない。つまり勇利の引きこもりはたった一日だけで強制終了し、翌日には皆と一緒に東京まで移動しなければならなかった。

 そんなこんなで移動日当日。勇利はビクビクとしながら待ち合わせ場所のホテルロビーに向かう。
 もちろんなるべく目立たないように、待ち合わせ時間きっかりの到着だ。そして輪の隅の方で目立たないように小さくなっていたのだが、すぐにピチットがそれに気付くと近寄ってきて勇利の肩をポンと叩いた。
「おはよう、勇利! ―っていうか、目赤いし、クマもすごいけど寝不足?」
「あ、ああ、ピチットくんか。おはよう。まあ、うん。ちょっと色々あったっていうか」
「ふーん? なんか、失恋した直後みたいな顔だよ」
「ははは……」
 しかし、状況的にはむしろその逆の方が近い気がする。何故なら長年の憧れの人にキスされたことについて、あれから丸一日ずっと頭の中でグルグルと考えていたせいで、常以上に意識しすぎている状態なのだ。そして心の整理は、もちろん全くついていない。
 とはいえもちろんそんなことを言う訳にもいかないので、力の無い笑い声を漏らしながらひとまず流していた時のことだ。突然両肩にズシリと重みが加わり、耳元に吐息をフッと吹きかけられたのに、勇利は全身をブルリと震わせながら勢いよく背後を振り返る。
 すると案の定というべきか。そこには勇利の引きつった表情とは正反対の満面の笑みを浮かべたヴィクトルが立っていた。
「やあ、勇利。例の約束、ちゃんと守ったから安心して。昨日朝食の後に彼女に返事をしておいたよ」
「ひいっ!?」
「ふふっ。まるでお化けにでも襲われたときみたいな反応だけど、どうかしたの?」
「いえ、そのようなことは決して……」
 ない。と口にしようとしたのだが。その口元に浮かべられている笑みが目に入った途端に妙に意識してしまい、結局失敗に終わる。
 しかしいくらなんでもこの状態はあからさますぎだろう。したがってドキドキと物凄い勢いで鳴っている心臓を胸の上から手でおさえながら、辛うじて視線を横にそらした。
「ふ、普通に言ってくださいよ。びっくりしたじゃないですか」
「一昨日、勇利がデリカシーが無いって言ったからね。だから俺なりに気をつけて、皆に聞こえないように小声で言ったんだけどな」
「それは、まあ……そうなんですけど」
「あ、もしかして。耳、感じる場所だった?」
「ちょっ!?」
 勇利は、ヴィクトルの筋金入りのファンだ。でも今ほど、この人のことをどうにかして欲しいと思ったことは無い。
 ともかくこれ以上余計なことを喋られては困ると、物凄い勢いで彼の口を手の平で塞ぐ。そして顔を近付けると、人前でそういうことを言うのはやめてくださいと必死な形相を浮かべながら小声で訴えた。
 とはいえ手の平に柔らかな感触が触れたのをきっかけに、一昨日キスした時のことを鮮明に思い出してしまったので、すぐにその手は外す。それから少しばかり気まずいなと思いつつヴィクトルの方を見ると、彼の口元には緩やかな笑みが浮かんでいて。
「勇利の手にキスしちゃった」
 ―これである。
 さらにそれまで黙って二人の様子を見ていたピチットが駄目押しの一言。
「なんか二人とも、急に仲良くなったけどペアの成果?」
 なんて具合に笑顔で追い打ちをかけてくるのである。
 そこで勇利は考えることを完全に放棄すると、少し離れたところに設置してあったソファにふらふらと歩み寄って座り込んだ。

 それからというもの、ヴィクトルは勇利を弄り回すのに完全に味を占めたのか。その日を境に勇利の姿を見つけるとすぐに近づいて来て、構い倒すようになった。
 勇利にとっては、まさに受難の日々の始まりだ。
 しかしやっぱり彼のことが好きなので、何だかんだといいつつ満更でもないのが困りものであった。

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