アイル

子豚ちゃんと氷上のプリンス-6

 それから一同は無事に東京に到着すると、その翌日にはすぐに公演が開始する。そしてついに迎えた最終公演の日に事件は起こった。

 ヴィクトルと勇利のペアの演技は、盛り上がるというのでエンディングの直前に組み込まれている。というわけで最終公演の日も、これまでと同じように滑っていたのだが。
 プログラムの本当に最後の最後。二人が向かい合ってポーズを取るところで、ヴィクトルは何を思ったのか。腰にスルリと手を回してくると、常よりも顔を近付けてきたのに、勇利はパニック状態に陥っていた。
「えっ? えっ?」
 ここは氷上で、周りにはたくさんのお客さんの目がある。そんな場所で、彼は一体何をしようとしているのか。
 視界一杯に広がるヴィクトルの顔と比例するように、観客席の歓声がだんだんと大きくなっていく状況から、何となくその答えは分かる。しかし頭はそんなまさかと理解するのを全力で拒否している。
 それはそうだろう。だって彼は―
「そんな表情をしていたら、本当にキスをしてしまうよ」
「!?」
 そこで二人を照らしていたスポットライトがオフになる。そしてそれから、驚きから緩く開いていた口に暖かい物が触れ、下唇を軽く吸われた。
 
 その後、どうやってリンクの中央から舞台袖まで下がったのかさっぱり分からない。
 ただエンディングのため、袖に控えていた仲間たちにお疲れと声をかけられたことで、ようやく意識が現実に戻るとはっと顔を上げる。それから物凄い勢いで脇に立っていたヴィクトルの方を向くと、思わず指をさしながらブルブルと震えた。
「やあ勇利。とりあえずおつかれさま。今日の滑り、今までで一番良かった」
「あ、ありがとうございます……―って、いやいやいや! そうじゃなくて!」
 ただ他の人たちがいる前で、なんであんな場所でキスをしたんですか!?なんてことを口に出来るはずもないだろう。
 というわけで赤い顔でモゴモゴと言い淀んでいると、その様子から言いたいことを察してくれたのか。ヴィクトルは腰に手を添えながら、驚かせちゃったかなと首を傾げてみせた。
「あのラストのところ、どの公演でも毎回歓声が大きくなっただろう? だからああやって思わせぶりに互いの顔を近付けるのも良いかなと思ったんだけど」
 つまり彼流のファンサービスの延長で、ああいったアレンジを入れたということらしい。まあ結果的にかなりの反応があったのも事実なので……百歩譲って、まあ良しとする。
 しかし、しかしだ。
 ライトが消えた後のキスは、どう考えても必要無かっただろう。
「最後のあの場面、もし誰かに撮影されてたらどうしよう……! ていうかお客さんから見えてなかったかな!?」
「大丈夫だよ。リンクの中央だったから客席から結構離れていたし。それに今日の公演はテレビ中継が入って無いから、カメラの台数も大分少なかったじゃないか」
「もてる人は余裕があっていいですね!? ああ……もう最悪だ。結婚出来なくなるかも」
「最悪なんて、傷付くなあ。大丈夫。勇利のことは、ちゃんと最後まで面倒見るから」
 頭をポンポンと軽く叩かれたのに顔を上げると、彼は安心してというように、それはもう惚れ惚れとする綺麗な笑みを浮かべている。
 それを近距離真正面から見てしまったせいで一瞬息が止まるものの、さすがに直前にあんなことをされたばかりなので、いけないいけないとすぐに己を律する。
 そしてもう勘弁してくださいよと、赤くなった顔を手で隠しながら、深い深いため息を吐いた。
「はあ……そういう台詞は、女の子にでも言ってあげてください。僕は今、本当に困ってるんです。だからヴィクトルの冗談に乗っている場合じゃないんですよ」
 とりあえず、現時点で他の仲間達から何も突っ込まれていないということは、彼らには見られていないということだ。
 最初の頃は、面白い組み合わせだと言って舞台袖からこっそりと覗かれてはからかわれていたのだが。公演も後半に差し掛かると、見飽きたのか弄られることはほとんど無くなった。
 となると、問題は観客席のお客さんの方である。
 どうしようどうしようとブツブツと呟きながら、スタッフに預けていた防寒用の上着を受け取る。それからそそくさとポケットに入れていたスマートフォンを取り出すと、早速SNSの画面を開いて『ヴィクトル、勝生、キス』とか、その手の単語で検索をかけまくった。
 とはいえ当然まだ公演の真っ最中なので、検索にかかるはずも無い。
 そしてヴィクトルはというと、勇利の肩に手を乗せながらそのスマートフォンの画面を見つめていて。そこで一言。
「勇利って、俺のSNSのプロフィールページをホームに設定しているんだ」
「……」
 もう、勘弁して欲しい。
 勝生勇利のライフは、もうゼロだ。
 そしてそこで、エンディングを開始しますというスタッフの大きな声が辺りに響いた。



 勇利は最終公演を終えると、仲間達にお疲れさまと挨拶をしてから、ショーの余韻を楽しむことなくすぐに控え室に飛び込んで着替える。それからホテルの自室に直行すると、東京公演の打ち上げが始まる時間までずっとスマートフォンにかじりついていた。
 何をしていたのかというと、もちろんヴィクトルとのペア演技の最後に、キスをしていたという噂が出ていないか調べていたのだ。
 とはいえ終わったばかりなので、まだ感想はあまり書かれていなかったのだが。
 それでも時間を追うごとにチラホラとそれらしき文章が投稿されだすと、危惧していた通り。ヴィクトルと勇利ペアの距離感が今回は異様に近かったとザワつきだしたのに、枕に顔を深く埋めた。
「ああ……もうヴィクトル! 本当になんてことをしてくれたんだ」
 恐らくこの調子だと、しばらくこの話題が呟かれることだろう。それを見るたびに、男としてのなけなしのプライドがちくちくと刺激されると思うと憂鬱なことこの上ない。
 とはいえどうやらキスの件については、結論から述べると誰にもバレていない様子であった。そして二人の異様な急接近については、恐らく曲に合わせてしっとりとした雰囲気を出したのだろうという結論に至っていた。
 ただよく考えて欲しい。
 自分たちは、どこからどう見ても男同士である。
 男二人のペアでしっとりとしたそういう演技をして、果たして面白いのだろうかと、勇利はスマートフォンの画面に向かって独り言を何度も呟いていた。



 そんなこんなで東京での最終公演を終えてから数時間後の夜。
 無事に全ての公演を終えることが出来たのを祝して、大阪公演の時と同じように宿泊しているホテルで立食形式の打ち上げが行われた。さすが最終日というだけあって、参加している人数も多く賑やかだ。
 しかし勇利は隅の方で出来るだけ小さくなり、一人でもそもそと食事をとっていた。
 眼鏡で髪の毛を下ろしたオフスタイルなので、こうして隅っこにいると選手ではなくその他大勢の関係者として上手い具合に馴染んでいる気がする。
 ちなみに何故そんなことをしているのかというと、理由は単純でヴィクトルに絡まれないためだ。
 正直なところ、絡まれたら絡まれたで嬉しくはあるのだが。ただこのままいったら、悪ふざけの延長でそのうち彼に公然とキスをされかねない。
 ―いや。正確に言うと、ほんの数時間前にリンクで公然とされたのだが。
(でもあれは誰にも気付かれていないから、ノーカウント。そう、ノーカウントだ)
 そうやって下を向きながら何度も自分自身に言い聞かせていると、視界に影が差したのに気付いて顔を上げる。すると目の前にグラスを片手に持った件の人物がいたのに、大げさなほどに上体を揺らした。
 打ち上げが開始してから、すでに一時間ほど経過している。その間一切話しかけられなかったので、上手い具合に周りに溶け込めていると思っていたのだが。世の中そうは甘くないらしい。
「勇利! いつまでもそんな隅っこで小さくなっていないで、皆と楽しもうよ」
「いえ。僕、しばらくの間は出来るだけ目立たない方向でいこうと思うので」
「ふーん、そう。食事は? ちゃんと食べている?」
「バランス良く取ってます。野菜も食べてます」
 今回はヴィクトル対策も万全だ。自分にしては珍しく、皿の上には肉だけでなく野菜もバランス良く取っているので、堂々と目の前に差し出すと片眉を上げられた。
 我ながら完璧である。
「うーん……勇利、ご機嫌斜めだなあ。今日の件は悪かったよ、心から謝る。もう人前で唇にキスはしないから」
「い、いや。別に怒ってるとかそういう訳じゃないです。そうじゃなくて、恥ずかしいから困るっていうか」
 悲しそうな表情をしながら顔を覗き込まれると、自分の方が悪いことをしているような気分になるから不思議なものだ。
 したがって慌ててバタバタと胸の前で手を振っていると、ヴィクトルは安心したように綺麗な笑みを浮かべている。
「よし。それなら、仲直り記念ついでに二人で写真を撮ろう」
「え? あ、はい」
 なんだか上手い具合に丸め込まれたような気がしなくもない。それに仲直り記念と言われたのも気恥ずかしい。
 でもこういった場所では、皆色んな人と写真を撮って自分のSNSに投稿しているので、深く考えたら負けだと己に言い聞かせる。
 そこでそういえば、こういった場所で自分からヴィクトルに写真撮影をお願いしたことが無いのを思い出すと、勇利は慌ててポケットから己のスマートフォンを取り出した。
「―あのっ! 僕も写真撮ってもいいですか?」
「もちろん。じゃあ勇利の方から先にどうぞ」
「あ、ありがとう、ございます!」
 途端に先ほどまでの少しばかり憂鬱な気分はどこへやらだ。気分が一気に高揚し、口元が勝手に緩むのが分かる。
 その姿は完全にただのヴィクトルファンだったが、あまりの嬉しさに完全に舞い上がっていたのでその自覚は皆無だ。
 そして少しばかりわたわたとしながらカメラアプリを起動し、辺りを見渡したのだが。生憎と近くに知り合いはいなかったので、インカメラ、いわゆる自撮りモードに切り替えて腕を前方に伸ばした。
「うーん……?」
「ちょっと画面からはみ出てるね。かして?」
「あ」
 横から延びてきた手に端末をスッと取られると、カメラとの距離が十数センチほど伸びる。さらに肩に腕を回されて引き寄せられたせいで、互いの頬と頬がギリギリまで近付くのが分かる。というか、画面上ではほぼ触れているように見える。
「わっ!?」
 突然互いの体温を感じられるほど身体が密着したのに驚いて、間の抜けた声を上げている間にパシャリとフラッシュがたかれる。
 それからヴィクトルは手慣れた様子でスマートフォンを自分のものに持ち替えると、さらにその数秒後に再びフラッシュの光が飛び込んできた。
 そしてそこでようやく身体を解放されると、目の前にスマートフォンを差し出された。
「はい、これ勇利の」
「あっ、ありがとう、ございます」
 彼にスマートフォンを取り上げられてから、まだ一分も経っていないだろう。本当にあっという間の出来事だ。
 ともかく礼を言いつつ受け取ると、早速写真を確認してみる。
 するとそこには携帯電話のカメラで写したとは思えない、ヴィクトルの完璧な笑顔があって惚れ惚れとする。しかしその横には、驚いたせいで普段以上に間の抜けた表情をしている自分の顔があったのにげっそりとした。
 こんなことなら、試合の時のように眼鏡を外して髪の毛を軽くセットしてくれば多少はマシに見えたのではと思うが後の祭りだ。
 そこでため息を吐きながら顔を上げると、ヴィクトルも自分のスマートフォンで撮影した写真を確認していたので、横からその画面をひょこりと覗きこんでみる。すると案の定、そちらの方も間の抜けた表情をしていたのに肩を落とした。
「すみません。なんか僕、すごい間抜けな顔してて」
「そう? 可愛いじゃないか」
「それ、誉めてませんよね?」
「ふふ、そんなことないよ。ユリオにも少し前まで可愛いって普通に言ってたし」
 ということは、今は言っていないのだろう。
 それを二十をとうの昔に過ぎた男に言っているという自覚が、ヴィクトルにあるのかどうかは謎だ。
 ただ外国人にとって日本人はかなり童顔に見えるらしいので、彼の中で自分はそういうくくりなのかもしれない。
(うん……そんな気がする)
 思えばよく出来ましたと誉められる時、ついでに頭を撫でられたりといった具合に、思い当たる事は山ほどある。ここ最近の過剰すぎるスキンシップも、その延長と言われれば納得出来るような、出来ないような。
 そこで改めて先ほどの写真を見ると、二人の間がゼロ距離なのに改めて気づいて、思わずうーんと唸り声を漏らした。
 何というか……見方によっては、頬にキスされているように見えなくもないのは、ヴィクトルのことを意識しすぎているせいだろうか。
「どうしたの? 写真撮りなおす?」
「あ、いや。どうせ撮り直したところで大して変わらないだろうし。
 それよりこの写真、今日のペアの件もあるし、SNSにアップしたらそういう風に見られるんじゃないかって心配で。ほら、日本って男同士でこの距離感は無いから」
 そこで写真の頬のあたりを指さすと、ヴィクトルはああと言った様子で肩を竦める。そしてロシアでも男同士でそういうのはあまりしないんじゃないかなと、さりげなく爆弾発言をした衝撃に眼鏡が少しだけズリ落ちた。
「まあ挨拶とかの場合は、別だけど」
「え」
 じゃあ、この写真の距離感は一体何だったのだという感じだ。
 勇利が撮影しようとした時はともかくとして、ヴィクトルが代わりに撮ってくれた時には、ここまでくっ付かなくても画面からはみ出ていなかった。ただ保険かなと勝手に納得して、されるがままになっていたのだが。
「仲直り記念だし、ね?」
 そこでヴィクトルは手に持っていたグラスを顔前に掲げると、にこりと口元に笑みを浮かべる。それからその中身をグイとあおり、のんきな様子で美味しいなあと口にした。
 そこで勇利はようやくからかわれていたことに気づくと、頬を赤く染め、それを隠すために手の平で目元を覆った。
 またやられた。
 しかも今回は、人目を憚ることなくあからさまにだ。
 いつもは何だかんだ言いつつ、キス以外はギリギリセーフだったのに。彼の行動が明らかにエスカレートしていっているのは、きっと気のせいではないだろう。
 そして彼をそういう風にしているのは、先ほどから水を飲むように口にしている、グラスの中身のせいだろう。つまりは酒だ。
「なんかおかしいと思ったら……お酒を飲んでるんじゃないですか。酔ってますよね」
「大丈夫、このくらいどうってことないよ。ただの白ワインだし、ロシアのウオッカに比べたら全然。多少、気分が良くなっている程度。
 ああ、そうそう。それでさっきの写真だけど、もちろん勇利の気が乗らないならSNSには載せないから安心して。二人だけの秘密だ」
「っ」
 他にも色々と言いたいことがあったはずなのに。秘密という言葉を口にされた途端に脳内が一気に真っ白になってしまう。おかげで次の言葉がまるで出てこず、代わりに喉を鳴らした。
 二人だけの秘密という言葉の、破壊力のすさまじさといったらない。自分がまるで、ヴィクトルの特別な存在に格上げされたみたいだ。
 しかし身体の中から聞こえたゴクリという音のおかげですぐに正気に戻ると、小さく首を横に振る。それから彼は酔うと理性の箍が緩んで口説きモードになるらしいと、努めて冷静を装って分析に努めた。
 そうやって平静を保たなければ、なんだかこのままおかしな勘違いをしてしまいそうで怖くてたまらなかった。
「はあ……お願いしますよ、本当に。こんな場所であんなことして、変な噂が立ったらヴィクトルだって困るでしょうに」
「変な噂って、勇利と俺が恋人同士っていう?」
「う、ぐっ……まあ、そうですけど」
 そこはわざと伏せているのだから、空気を読んで欲しいのだが。酔っぱらいに何を言っても意味が無いのは、実家で十分に学習済みなのでぐっと我慢だ。
「勇利と恋人か……なるほど」
「いや、あの、ヴィクトル? なるほどじゃなくて。本当に大丈夫ですか? そこは考えるところじゃないですからね?」
 酔っぱらいは本当に面倒くさい。そしてなんだか妙な方向に話しが転がり出したような気がするのに、内心焦っていた時のことだ。不意にヴィクトルがいるのとは反対側の肩をぽんと叩かれたのに目を瞬かせた。
 正直なところ、こんなタイミングで話しかけられるなんて、最悪としか言いようがない。しかし無視する訳にもいかないのでおずおずと横を向くと、そこに見知った顔があったのに、直前のやや胡乱な表情とは一転。思わずすがるようにその名を呼んでいた。
「やあ、二人とも。随分と楽しそうに話してるね」
「あ、ああ……ピチットくん!」
 彼の場合は勇利と付き合いが長く、話しやすい人間の一人なので救世主だ。しかしその名を口にした直後、注目の的だよと笑顔で告げられたのに口元を思いきり引きつらせた。
 人生、そう甘くは無いらしい。
「で、何を話してたの?」
「いや、どうということは無いんだけど―」
「俺達が恋人同士だと周りに知られるのは、困るんだって」
「いやいやいや! ちょっと待ってください!?」
 ヴィクトルが酔って壊れたと言おうとしたのだが。先手を打たれた挙げ句、恋人同士という微妙極まりない表現を使われたせいで、ピチットがぽかんと口を開けながら呆けた表情をしている。
 これは完全に勘違いをしているパターンだ。ここまでくると、いっそ勇利自身も口を開けて何もかも放棄したい気分になってくる。
 しかしこれをそのままにしておくのはどう考えても不味いだろう。というわけで、慌てて間に入って違うからと否定の言葉を口にしたのに。
 ピチットはいつの間に正気に戻ったのか。勇利のことをガン無視し、ヴィクトルのことを見ながら興味深そうに頷いているのだ。
「水臭いなあ、勇利。ヴィクトルに告白したなら、僕にも教えてよ」
「え?」
「ああ、さっきのは告白だったのか」
 ヴィクトルは気付かなくてごめんと謝ってくれるが、そうじゃない。自分は告白をしたのではなくて、周りに恋人同士だと勘違いされるのは困るだろうと遠回しに言っただけだ。
 というか酔っ払いが直前の単語を拾って、その場の思い付きでポンポンと会話を進めているせいで、話しがどんどんこじれていっていて泣きそうだ。
 ただあまりにも話しが急展開なのと、この手の恋愛絡みの話題には不慣れなのも相まり、間に割り込むことが全く出来ない。
 そうこうしている間にヴィクトルは、一つ頷くと決めたと口にしながら勇利に顔をゆっくりと近づけてきた。
「残念ながら男と付き合ったことは今まで一度も無いから、よく分からないというのが正直なところだけど。でも、完全に無理ならあんなこと、出来るはずがないし……うん、俺からも付き合ってくれないかな?」
「おお~!」
 会話が噛み合っているようで、全く噛み合っていない。
 何だこれは。というかあんなこととは一体。
 何もかもが理解不能だ。
 ピチットがわざとらしい声を上げながら拍手をしてくれているが、新手の茶番かと突っ込みを入れれば良いのだろうか。
 しかし一連の流れがあまりにも衝撃的すぎて、もはや何と口にすればいいのやらだ。
「あの……ヴィクトル、大丈夫?」
 したがって辛うじて言葉にすることが出来たのは、その一言だけであった。
 ただヴィクトルにはその真意が全く伝わっていないのか。さらにマイペースに話しを進め、プライベートの連絡先も全て交換しようと勇利の手からスマートフォンを取り上げる始末である。
 そして手慣れた様子で互いの連絡先を勝手に交換し終えると、端末を勇利に返しながら顎に手を添えてきた。
「それじゃあ勇利、よろしく」
「ヒッ!?」
 人前でキスはしないという先ほどの約束を守るつもりはあるのか。彼の唇は勇利の唇から数センチほど離れた距離で一応止まってはいる。それでも凄まじい色気はダダ漏れなので、それに完全にあてられてしまって息をするのもままならず、ひきつれたような悲鳴が口から漏れてしまう。
 ただ一人、ピチットだけがとても楽しそうに笑いながら、そんな二人の様子をスマートフォンのカメラで何枚も写真を撮っていた。
 それから何度目かのシャッター音が辺りに鳴り響いたところで、勇利はようやく正気に戻ると目の前にいるヴィクトルの胸を慌てて両手で押した。
「い、いくらなんでも、っ―」
 冗談が過ぎますと言おうとしたのだが。ヴィクトルと勇利が離れたことで、話しが一段落したと思ったのか。タイミング良く数人の女の子達が近寄ってくると、ヴィクトルに一緒に写真を撮りたいとお願いをしてくる。
 そして頼まれた本人は毎度の如く笑顔でもちろんと口にすると、悪いけど少し席を外すねと手を振って離れていく。一瞬、彼のその笑みが貼り付けた物のように感じたのは、きっと気のせいに違いない。
 ともかくそこでようやく勇利は彼の呪縛から解放されると、脱力するように背後の壁に寄りかかりながら天を仰いだ。
「な……何だったんだ、今のは」
 運動なんて何もしていないのに。心臓が早鐘を打ち、はあはあと荒い息が口から漏れている。
「それで勇利、今のってどこまで本当なの?」
「いや、全部冗談だよ。ヴィクトル、結構お酒飲んでたみたいだから、酔っぱらってるだけ。頼むから本気にしないで」
「ふーん、そうなんだ。残念。SNSで今日のショーの感想をチェックしていたら、二人がペア演技の時に恋人みたいな怪しい雰囲気だったって話してる人たちが多かったから。もしかしてって思って、あえて乗ってみたんだけど」
「ああ……うん。もうSNS見たんだ」
 この件について、スケーター仲間からは今のところ一切突っ込まれていないのに安堵していた矢先のこれである。こうなると、他の身内に広がるのも時間の問題だろう。
 しかも怪しい雰囲気とか、出来てそうとか、二人の関係を直接的に怪しむ表現をしている言葉は一切見なかったことにしていたのに。思いがけずピチットから直接くらった攻撃力抜群の言葉達に、思わずウッと呻きながらよろけてしまう。
 予想の斜め上の出来事が次から次へと起こっているせいで、もう完全に容量オーバーだ。そこで勇利はよろよろと会場の出入り口に向かった。
「あれ? 勇利もう帰るの?」
「うん」
 後ろから聞こえてきたピチットの言葉に片手を上げて辛うじてこたえると、虚ろな目をしながらホテルの廊下へ逃げ出した。

戻る