アイル

腐男子がイケメンスケーターに迫られるはずがない!-1

「やっと……やっと、スケートの同人誌が買えた!」
 場所は東京の有明。特徴的な逆三角形の屋根を持つ展示場の、ほど近くにあるホテルの一室に戻ったところで、勇利はようやくマスクを外すとギュッと拳を握りしめながらそう呟く。そしてその肩にかけていた大きな黒いカバンの中には、大量の薄い本が入っていた。

 そもそも勇利がスケートの二次創作に出会ったのは、アメリカのデトロイトに拠点を置いている時のことだ。
 もともと気にしやすい性格だったのもあり、勇利は大きな試合の後などは必ずネットで検索をかける。そしてその途中でファンアートを描いている人たちの存在に気付いたのだ。
 しかしどうやらほとんどの人たちは、表だってはネット上にイラストをアップしていないようで。それならとその人たちのホームページを何とか探し出してアクセスをしようとしても、毎度難解なパスワードに阻まれてしまうのである。
 でもヴィクトルの綺麗なイラストをもっと見たくて。その一心で、同人と言われるコンテンツの隠語を頑張って勉強して解読し……そこでスケートの二次創作物と出会ってしまった。
 ちなみに初めてスケーター同士の絡み合いを見た瞬間、雷撃が頭から爪先まで走り抜けたのは言うまでもない。
 もちろん同人界隈の隠語を勉強している最中に、男性同士の恋愛描写などもあるらしいということを知識として得てはいたものの、知るのと見るのでは大違いだ。それに絡みあっているスケートの選手たちは、皆大会などで見知った存在というのもあって余計にである。
 ただ怖いもの見たさと、未知のものへの好奇心を刺激されたのも事実で。それに促されるように定期的にネットの海を徘徊しては、スケート同人のファンアートを読み漁って。
 結果、数ヶ月ほど経過する頃には、勇利は立派な腐男子に成長していた。
 ―というのがここまでのおおよその流れである。
「でも本当、この同人誌を手に取るまでが長かったな……うん」
 ちなみに同人誌なる本が存在するのには、スケート同人の存在を知ってからすぐに気づいた。
 パスワード保護されているホームページの中に、同人誌の紹介ページなるものが時折存在していたからだ。
 ただ成人向けの内容に遭遇する率が高かったため、最初はなるべく見ないようにしていた。しかし腐男子化が進むにつれてむしろその逆。同人誌のサンプルページを眺めては、いいなあと呟くまでになっていた。
 ただしこの時勇利がいたのは、日本ではなくアメリカだ。となると、同人誌を頒布している同人誌即売会なるものに行くのはほぼ無理なので、それらを手に入れるハードルが格段に上がる。
 もちろん通販を受け付けてくれている良心的な人もいたが、勇利は一応これでも現役のスケーターで。どう考えても、名前的にアウトだろう。
 というわけで通販を諦めること数十回。しかしながら虎視眈々と機会を伺い、デトロイトから九州に戻る途中。まさに今日、ついに同人誌即売会なるイベントに足を踏み入れることが出来たという訳だ。
「でも、ちょっと買いすぎちゃったかな。ヴィクトルが出てた本、全買いしちゃったし」
 直前にあった数々の試合にボロ負けした反動もあり、ヤケ食いならぬヤケ買いをし、結果カバンの中はパンパンだ。それを横目に見ながら、スーツケースの中に入るだろうかと、今更ながらやや心配になった。
 まあ最悪ダンボールに詰めて実家に送るかと考えつつ、ベッドに腰掛けて早速戦利品をごそごそと漁る。そしてその中から目に付いた一冊を取り出すと、ほわあと顔を緩めた。
「やっと、生同人誌が読める。ずっと楽しみにしてたんだよなあ」
 中から取り出したのは、ヴィクトル・ニキフォロフとユーリ・プリセツキーが表紙に描かれた一冊だ。思えばユーリにはグランプリファイナルの会場でボコボコに言われたのだが、それはそれ、これはこれだ。
 ああいうツンデレっぽい態度、ヴィクトルにもしているのだろうかと斜め上のことを考えながら同人誌の表紙をまじまじと見つめる。
「二人ともビジュアルも文句無しに綺麗だし……うん、いいよなぁ」
 というわけで、勇利は数あるヴィクトル絡みのカップリングでは、ヴィクトルとユーリの組み合わせが一番好きだった。
 ついでに言うと、同人誌即売会でもこの二人の組み合わせのサークルがジャンルの中では一番多かった。やはり接点が沢山あるので、世間一般的にも組み合わせやすいのだろう。
 もちろん他にもクリスやギオルギー、果てには接点皆無な勇利との本まであったのにはかなり驚かされた。
「そうそう、そういえば……僕とのカップリングの本もあったんだ」
 ネット上では見かけたことが無かったカップリングだ。したがってすっかり油断していたのもあって、イベント会場で偶然目にした時には驚いたなんてものではなかった。おかげで思わずその場で一歩後ずさってしまい、周辺の人達から不思議そうな眼差しで見られたほどだ。
 ―とか何とかいいつつ、結局気になって買ってしまったのだが。
 そこでカバンの中からヴィクトルと自分のカップリングの本を取り出してパラパラとめくってみると……なるほど、エッチな本である。
 ヴィクトルとユーリはその年齢差もあいまってか、比較的全年齢向けのほのぼの系かギャグ系のものが多かった。したがってそれとのギャップも相まり、与えられる衝撃度は凄まじい。
「それになんか、ネットより本の方がすごいような」
 まあ、ネット上のデータはいくらアングラ化してもその気になれば、誰でも見られるものだ。しかし同人誌という紙の媒体となると、そうはいかない。
 それだけに過激な内容なのかなと勝手な解釈をしつつ、再び同人誌の最初のページに戻って。
 そこで誰に見られているわけでもないのに、意味もなく部屋の中を見渡しながら一つ咳払いをする。そうして自分一人しかいないのを再確認してから、そこでようやくページをめくった。
 勇利もこう見えても二十三歳。まだまだそういうことに興味のある年齢なのだ。
 そして最後まで読み終えたところで、これは封印したほうが良いのではないかと頭を抱えていた。
「……うん。これはまずい。危ない性癖に目覚めそうだ」
 本の中の話は、大会後のホテルでの出来事だった。勇利がグランプリファイナルでビリだったにも関わらず、試合後にアナニーをしていて。それがヴィクトルに見つかってお仕置きセックスをされるというような流れだ。
 ファイナルに負けてビリだったあたりが、微妙に現実をなぞっていて心が痛い。
 まあ、実際にはもちろんオナニーをする気分ではなかったので、ヤケ食いをしていたのだが。
 なんてことを考えながら再び恐る恐る本を開いてみると、そのページはヴィクトルに犯されている勇利自身が、すごく気持ち良さそうな表情をしている場面だった。
 その表情はひどくドロドロで、妙にリアルなせいか。思わず手が止まってしまい、しばし見入ってしまう。
 そしてふと、お尻ってそんなに気持ち良いのかなという自身の呟きが己の耳に入ってきたところで、その言葉の内容に驚いて慌てて目を見開いた。
「―って、いやいや!」
 今の勇利は完全に腐男子化しているので、その手の行為に対して垣根が相当低くなっている。だから思わずそんな言葉が漏れてしまったのだろう。そこでこんなエッチな本を見てしまったせいで、少しばかり興味が出てきてしまったといったところか。
 そこまで考えたところでふと下肢が窮屈なことに気付いて、恐る恐る目を下に向ける。そして自身が完全に勃起しているのに気付くと、ヒイとひきつれたような声を上げながら手に持っていた本を取り落とした。
「ぼ、僕、なんで勃って!? いや、正直、ちょっと興奮してたけど、してたけど……っ!」
 しかしここまで勃起してしまった今となっては、放っておくわけにもいかない。したがって半泣き状態になりながらも、ズボンの前を緩めて自身を取り出し、シコシコと己の陰茎を擦るしかなかった。
 まさか人生初の同人誌を手にしたその日に、オナニーすることになるとは夢にも思わなかった。

 そんなこんなで。勇利はオナニーを手早く終えると、、精神的ショックを癒すべく風呂に入る。そしていくらか回復したところで、懲りずに再び同人誌を読みだして。その全てを読み終えてベッドに入ったところで、今度はスマートフォンでアナニーについて検索をしていた。
 こんなの絶対不味いと思うのに。
 同人誌の中で気持ち良さそうに尻の孔を掘られている受けの姿が脳裏に焼き付いて離れず、興味が出てしまったというか。まあ、そんな感じだ。
 そしてそんな言い訳を自分自身に何度もしつつも、気付いた時には、大手通販サイトで前立腺マッサージ器具やローション、さらにはバイブといったグッズを購入していた。
 その翌日。勇利は東京から九州の実家に帰ると、その日の夜には前日通販したアナニーグッズを手にしていた。それをコソコソと自室に持ち込み、夜寝る前の段階になったところで、周りの物音に聞き耳を立てながら極力音を立てないように開封していたのは言うまでもない。
 そしてこれが、勇利のアナニーデビューのきっかけである。

 ちなみに。勇利が初めて参加したイベントは、三月末に開催される女性向けのイベントであった。したがって男性の存在が極めて少なかったので、その存在は大変目立っていたのは言うまでもない。
 加えて本物のスケーター、勝生勇利本人だ。本人は全く気付いていなかったが、勇利がスケートジャンルのスペースに現れた瞬間、界隈は明らかにざわついた。
 しかし幸いと言うべか。その時の勇利は、試合に出場してテレビに露出していた頃と比べるとかなりの太め体型で、なおかつマスク姿だった。おかげでとんでもないそっくりさんが現れたという噂が、水面下でまことしやかに囁かれるだけでなんとか済んだ。
 ただしそれからしばらくして、腐男子勇利ネタが界隈で流行るというのはまた別の話である。

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