アイル

子豚ちゃんと氷上のプリンス-8

 ―翌朝。
 勇利は目蓋にほんのりと太陽の光を感じたのに、意識を少しだけ浮上させる。そしてそこで何かが身体を這っている感覚に気付くと、内心首を傾げながらむずがるように首を振った。
「んぅ……な、に?」
「何でも無いよ。まだ余裕があるし、勇利はもう少し寝ていて構わないから。時間になったらちゃんと起こしてあげる」
「んー……うん」
 そもそも寝言にこうして返事が返ってくること自体おかしいのだが、寝ぼけた頭ではそこまで考えが及ばない。それより起こしてくれるのならば安心かと、再び意識を微睡ませる。
 しかしそれからしばらくして、再び身体を撫でられているのに気付くと、小さく唸り声を漏らしながらしつこいなあと心の中で呟いた。
 恐らくそれは人の手だろう。何を考えているのかよく分からないが、先ほどから脇から腰にかけてをゆっくりと何度も辿っており、少しばかりくすぐったい。
 あと少しというところで深い眠りに入れそうなのに、とんだ安眠妨害だ。ともかく邪魔で邪魔でたまらない。
 それならと脇で腕を挟み込んで動けないようにし、これで安心して眠れると内心しめしめとほくそ笑んだのも束の間。それならと言わんばかりに、今度は手の平が胸に這わされると、平べったいばかりで何の膨らみの無いそこを揉みこんでくるのだ。
 さらには気まぐれに先端のささやかな膨らみを、指先で摘んでキュッと前方に引っ張る動きを繰り返す。
(うう……なんだ、これ)
 男の胸なんて触っても楽しく無いだろうに。この手の主は一体何を考えているのやら。さっぱり意味不明だ。
 というかずっとその動きを繰り返されているせいで、何だかおかしな気分になってくると、思わず両足を擦り合わせてしまう。
 ただ念のために言っておくが、別に胸を弄られているから感じている訳ではない。
 そうではなくて、ここ最近アイスショーの公演が連日あったので、そういえば抜いていなかったなというのを思い出したというか。だからきっとこれは、欲求不満が過ぎて、襲われる妄想でもしているのだ。
 なんて間抜けな言い訳を自分自身にしながら、感じてしまっていることを正当化にかかる。
 しかしそんなことを考えている間に腰を掴まれてグイと後方に引き寄せられ、背中に温もりが触れる。さらには尻の辺りに何やら硬い物が当たっているのに気付くと、そこでようやく事態を把握してピシリと身体を固まらせた。
(あ、あれ?)
 この感じ、物凄く心当たりがあるのは、きっと気のせいではないだろう。
 しかもつい昨日にだ。
「ん……勇利」
「―ッ!」
 さらには不意打ちで耳元に腰直撃の甘い声で名前を囁かれたせいで、完全に腰砕け状態になってしまう。
 ただそのおかげで一気に意識を浮上させるのに成功すると、ベッドの端の方へほうほうのていで逃げだした。
「……ん? やっと起きた?」
「なっ、なんでこんな場所にヴィクトルがっ……!? あれ? これって、夢?」
「いいや、現実だけど」
 声音は優しいものだが、その手は強引だ。
 あっという間に勇利を引き寄せてベッドの上に仰向けの格好に押し倒すと、おはようと朝の挨拶をする。それに何とかおはようございますと型通りの挨拶を返すものの、物凄い非現実感だ。
 まだ完全に覚醒していない状態なので、全く理解が追いつかない。
 そしてヴィクトルはというと、そんな勇利の様子を横目に、サイドテーブルに手を伸ばしてミネラルウォーターのボトルを取り上げ数口その中身を飲んでいる。
 その様子をどこか他人事のように眺めていると、唐突に彼の視線が向けられ、手に持っていたペットボトルを軽く振られた。
「勇利も飲みたい?」
「えっ、あ……えーとそれじゃあ一口だけ、いただきます」
 正直、喉の乾きよりも目の前のヴィクトルの存在の方が気になっていたのだが。場をもたせるためにも何となく頷きながら、水を受け取るために手を伸ばす。
 しかしその手がボトルに触れることはなく、その代わりにヴィクトルの手が絡められて。そして彼は水を一口含んでから勇利に口付け、それを口内に流し込んできた。
「―ん」
「う、ぐっ!?」
 そんなこんなで。思いがけず朝から濃厚すぎる口付けを食らった勇利は、唇を離されたときには息もたえだえになっていたのは言うまでもない。
 ただそのおかげで、完全に目を覚ますことには成功した。

「さて、それじゃあそろそろ起きようか。まずは朝食に行って、それからチェックアウトの準備もしないとだ」
「それもそうですけど……そもそも、何でヴィクトルが僕の部屋に」
「せっかく恋人になったのに傷付くなあ」
 ヴィクトルは額に手を添えながら首を振っているが、それが演技なのは丸分かりだ。しかも全裸で目のやり場に困るというか。
 しかしここでそれらのことについて一々突っ込みを入れていては、いつまで経っても話が進まない。
 したがって余計なことは、考えないように考えないようにと念仏のように脳内で唱えながら、サイドテーブルから眼鏡を取り上げてかける。
 するとその様子を見て、冗談に乗ってくれそうも無いと察したのか。ヴィクトルは肩を竦めながら、別に深い理由は無いけどねとようやく本題を話し始めた。
「ここのホテル、オートロックじゃないからね。ドアを開けっ放しのまま帰るなんて危なくて無理だし。だからここで一緒に寝たってわけさ」
「起こしてくれれば、鍵くらい自分でかけたのに」
「セックスで疲れきっている恋人を叩き起こすなんて酷い真似、出来るわけ無いじゃないか。……―ていうのは建前で、本心はこの部屋にいたかったからなんだけど」
「~~ッ!!」
 ああ、もう。本当にこの人は。
 すぐにこうやって、恥ずかしいことをぽんぽんと口にするから油断も隙もあったものではない。
「勇利、真っ赤になってカワイイな。こういうことが初めてみたいだ」
「もう……童貞なんだから、初めてに決まってるじゃないかっ!」
 最後の方は半ばヤケだ。顔を真っ赤に染め上げながら一気にそう口にすると、そのままの勢いで洗面所に逃げ込む。
 そしてすれ違った時に見えたヴィクトルの表情は、テレビや雑誌では一度も目にしたことのない緩みきったもので。それを脳裏に焼き付けながら洗面所の鏡を何気なく見て―そこで勇利自身も全裸なことにようやく気付くと悲鳴を上げた。



 それから朝食をとるために勇利はヴィクトルと共に、ホテルのレストランに向かう。すると席について早々、近くに座っていた後輩の南が、SNSがすごいことになってますよと声をかけてきた。
「SNS?」
 そういえば今朝はヴィクトルが部屋にいたせいで、全くチェックしていなかったのを思い出すと、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「ところで、すごいって何が?」
「ええっと……とりあえず、タイのピチット選手のページば見たら分かると思うんですけど」
「ピチットくん……」
 その名前だけで、ものすごく嫌な予感がする。
 何故なら、彼には昨日の打ち上げの席でのヴィクトルとの告白寸劇を見られているのである。もちろん即座に冗談だと否定はしたものの、直後のこの騒ぎなので妙に胸騒ぎがするというか。
 したがって急いでブックマークから彼のページに飛ぶと、トップページにでかでかとヴィクトルと自分の口付け寸前のような写真が載っていたのに、テーブルの上にスマートフォンを落とした。
 そういえば、彼にこの写真をアップしないようにと釘を刺していなかったのを思い出す。
「ど、どうしよう……消すように、頼むか? いやでも、今さら消す方が怪しいか」
 そこでタイムスタンプを確認すると、投稿されたのはどうやら昨夜のようだ。それからまだ一晩しか経っていないのに、お気に入りの数字が凄まじい。
 これはもう、手遅れだ。
「勇利、どうしたの? ―ああ、ピチットが昨日の打ち上げの時の写真を上げたのか」
「二人とも雰囲気があるし、てっきり本当にそうなのかって一瞬たまげたです!」
 南は冗談だと思っているのか、少し照れたような表情を浮かべながらも笑ってくれている。しかしその後になんやかんやあって本当に彼と恋人となってしまった今となっては、それに同調して笑う勇利の表情はややひきつり気味だ。
 しかもヴィクトルはヴィクトルで、そんな南の様子をじっと見つめながら、首を傾げているのだ。
 これはとても、駄目な兆候だ。
 したがって頼むから余計なことは言わないでくれと必死の形相で脇腹をつつきまくると、彼は釈然としない表情を一瞬浮かべながらも口を噤んだ。

 それからしばらくすると、南をはじめ、近くの席に座っていた人たちが次々と朝食を食べ終えていい感じに人が少なくなってくる。そこで勇利はようやくひきつり笑いを引っ込めると、この世の終わりのような表情を浮かべながら、どうしようと頭を抱えた。
「この写真……全世界の人に見られていると思うと心臓が痛い。しかも絶対ユリオも見てるだろうし。ああ……どうしよう。僕次にユリオと会ったら、絶対飛び蹴りどころじゃすまない」
「ははは、勇利は心配症だなあ。ちゃんと説明すれば分かってくれるよ」
「まあヴィクトルは大丈夫だろうけど……問題は僕の方というか」
 何しろユリオという少年は、ヴィクトルを連れ戻しにわざわざロシアから勇利の実家までやって来たほどだ。
 次はどんな襲撃を食らうのやら。なんてことをビクビクと考えていると顎をグイと捕まれ、ヴィクトルの方を強制的に向かされる。
「それより勇利。さっきの南の件、後でキス一つの貸しだよ」
「う、えっ」
 そこでさらにウインクをぶつけられ、心配事が一瞬で吹き飛ぶ。
 しかしそこでピチットがひょこりと目の前に現れると、一言。朝からお熱いねと声をかけてきた。
「ピチットくん!?」
「おはよう、勇利」
「お、おはよう……―じゃなくて! あの写真なんでアップしたの!?」
「写真? ああ、SNSにアップしたやつのことか。何でって、駄目って言われなかったからいいのかなって。それに本文にヴィクトルが打ち上げで酔っぱらって勇利に告白したってちゃんと書いておいたから大丈夫だよ」
 そういえば本文の方を見ていなかったなと思いつつ、ヴィクトルの胸元を押して身体を離すと、再びスマートフォンを取り上げて件の投稿を見てみる。
 すると確かに、ピチットの言った通りのことが書かれていたのに唸り声を漏らした。
「酔った上の冗談って書かれているし……これなら、一応セーフになるのかな」
 色気だだ漏れのヴィクトルと勇利のツーショット写真だけがアップされていたら、思わせぶりなんてものではない。しかしその下に、酔っぱらいの冗談という条件が付け加えられれば、いくらかその衝撃度も薄れているような。
 ともかくだ。一度アップされてしまった以上、詮索されることがあっても徹底的に知らぬ存ぜぬを押し通すしかないと決意を固めつつ顔を上げると、すでにそこにピチットの姿は無かった。
「あれ? ピチットくんは?」
「彼なら、ちゃんと報告したからってどこかに行ったよ。ところで勇利、キス二回だよ」
「へ?」
 そういえばピチットと話している最中、妙におとなしかったと思えばこれだ。
 この騒動が一段落するまで、しばらく色々と面倒そうだなと思いながら小さくため息を吐く。
 しかし何だかんだと言いつつ、頬を赤く染めて一つ頷いた。

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